2019年3月1日
菩薩の作法「合掌」
「人間でいるための作法」は、『人権のひろば』(公益財団法人人権擁護協力会編集発行)に掲載される作家・早瀬詠一郎氏によるエッセイである。
第22回のエッセイのタイトルは―「いじる」という名の「いじめ」―であった。文章の冒頭、早瀬氏は「いじめ」を平仮名表記することに対し問題提起されている。以下引用
子どもにも分かりやすくしているつもりなのでしょうが、軽く思えてしまうのは私だけではない気がします。
「苛め」は、苛立つことが語源です。すなわち、加害者側。
「虐め」とするなら、虐待を思い起こすように被害者側の凄惨が感じられます。
早瀬氏は、学校は子どもにとって実社会の入り口であり、家族や地域などの空間と異なり、同世代が寄り集まって、親たち大人世界を、自分なりに捉える場所であると綴られている。
学校あるいはクラスや部活という閉鎖された場所で起こる「いじめ」を、苛める者・虐められる者と見るならば、相互が抱える辛く重い姿がリアリティーを持って浮かび上がる。では「いじめ」―苛め虐められる世界のはじまりは何であろうか。
筆者が預かる小寺では、夏休みのこども道場以外にもさまざまな子どもが来て、一緒に食事をしたり色々な会話に応じてくれる。また、教誨師として関わる少年刑務所の被収容者たちの告白や懺悔、あるいは人権擁護委員に寄せられるSOSミニレターでの相談を通じ、「いじめ」のきっかけの多くが、「いじる」ことにあるように感じている。
「いじる」とは、特定の相手に対し短所や欠点、特徴をあげつらうことである。早瀬氏もエッセイで指摘しているが、お笑い芸人ならば「いじる」ことは、舞台で演じる限られた時間内のネタでもあろうが、芸人でない子どもにとっては「いじる」ことが弱い者いじめとなり、集団化しエスカレートするのを止める術を持たない悪質な犯罪の入り口となる。
また「いじめ」は、学校だけの問題ではない。職場でのさまざまなハラスメント(嫌がらせ)、地域社会での人間関係、家庭内では夫婦あるいは親子間でも起こり得ることである。軽い気持ちで始めた「いじる」行為が、ついには痛ましくも悲しい最悪の結末の報道によって私たちは、その事実の一端をようやく知る。「いじめ」は「いのち」に係わることと表現しても過言ではあるまい。
聖路加国際病院名誉院長であった日野原重明先生は生前、小学生たちに「いのちの授業」を行い「いのち」は「時間」だよと語っておられた。早瀬氏も「生きることは時間そのものなのです」と記されている。換言すれば、他者の安穏なる時間を奪うことは「いのち」を奪うとても恐ろしい行為と言えまいか。
常不軽菩薩は出会ったすべての人を礼拝し、褒め称えたという。他者を深く敬い、決して軽んじたり、あなどることはなかったと経文にある。そして、日蓮聖人は「不軽菩薩は所見の人において仏身を見る」とお示しになった。
私たちは、未だ「仏身」を成就していないが、此の身は、自他ともに仏と成る身である。すなわち、他者を苛め虐めることは、他の「仏身」を傷つけるのみならず、己自身の「仏身」をも貶めることに他ならない。
【合掌】は、仏を礼拝し恭敬の心を表す最も相応しい姿とされる。ならば、日蓮聖人に生き方を学ぶ私たちが、皆ともに仏身を成就する菩薩の作法と信解できる。
(論説委員・村井惇匡)