論説

2019年2月20日号

感謝の心で迎える降誕800年に

昨年(平成30年)2月15、16日の2日間にわたり、日蓮聖人(1222~82)ご生誕の房総地方(千葉県鴨川市など)へ参詣する機会を得ました。聖人ご誕生の誕生寺、ご両親が祀られている妙蓮寺、出家得度の清澄寺、小松原法難ゆかりの鏡忍寺、日澄寺、日蓮寺などです。
はからずも、2月15日は釈尊の涅槃会に当たり、翌16日は聖人降誕の聖日です。ことに2月16日、誕生寺で営まれる、聖人御降誕会の法要に参列できたことは、格別の感慨深さを感じました。
2月16日の午前中、誕生寺に安置されている日蓮聖人ご幼少の坐像が、妙蓮寺へと御遷座になられます。その御幼像の前で読経の後、そのお像は御輿へと移られ、唱題行脚の中、誕生寺へと向かわれます。近隣の寺院の人たち、あるいは信徒の人たちは、御会式法要のときのように万灯をかかげ、うちわ太鼓を打ち、お題目を唱えながら誕生寺の山門、そして祖師堂へと行脚されるのです。私にとって、幼い頃から、御会式法要に参列することはあっても、聖人の降誕会の参列は初めてのできごとでありました。
ところで2年後の西暦2021年は、日蓮聖人降誕八百年を迎えます。私は出家以来今日まで、およそ60年の歩みの中で、聖人の生き方とその教えを求めてきました。あらためて、日蓮聖人というお方は、どのような生き方をなされた人であろうか、と自問してみますと、その全体を語ることは、凡人には不可能です。いまその1つを示すことが許されるならば、日蓮聖人というお方は、末法の日本国の人びとに対して、大恩教主釈尊の広大無辺の救いの世界を、身命をかけて説き示された釈尊の使者である、ということです。もちろん、聖人がその確信を得られるまでには、真の仏弟子として生きることを目指され、自己の身命を捧げて釈尊に直参されるという求道心が必要です。その結果として、聖人は釈尊のみ心を体得されたものと拝察されます。
私たち凡人は、日々の生活に執着し、自己の五欲(五根の欲望)に支配され、汲々とした生き方が主流となっています。しかし、聖人はそのような生き方を超えて、釈尊の示される道に直参されているのです。
日蓮聖人の20年におよぶ真摯な求道研鑽の日々は、32歳の建長5年(1253)4月28日、「立教開宗」という宗教活動を示されることで、弘経者という新たな第一歩を示されることになります。そのときの聖人の覚悟は、1つには大恩教主釈尊の願いを、自己が末法の人々に説き示すことにより、宗教的救済の世界を明らかにするということであります。
第2には、聖人は法華経の教えを説き示すことによって、いかなる法難が興起したとしても、けっしてその道から退転することはしない、という不退転の誓いであります。
たしかに、日蓮聖人の61年の生涯には、伊豆流罪・佐渡流罪をはじめとして、種々の法難が興起しました。けれども、ついに南無妙法蓮華経のお題目は、久遠のみ仏(大恩教主釈尊)が、久遠の救いの教え(大良薬)として、久遠の弟子(上行菩薩)に手渡された(付嘱された)唯一の教えであることを、表明されているのです。その教えが、私どもにとって最上の教えであります。
このように受けとめるとき、私たちは、宗祖日蓮聖人の降誕八百年を、宗教的感謝の立場から、謹んで迎えたいのです。
(論説委員・北川前肇)

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2019年2月10日号

「保」が伝える意味とこれから

昨今メディアでもさまざまな行事や催しを、「平成最後の○○」という言葉で紹介している。新しい元号が何になるのか関心は広がる。私は、お寺の幼稚園の園長という立場で、子どもを「保育する」という仕事にも携わっている。3月に平成最後の卒園生を送り、新入園児を迎える4月、新たな元号に「保」が入ってほしいと思うのである。
今年10月から消費税の引き上げによって5、6兆円の財源を見込んだ国政は、その予算の2兆円を幼児における保育の無償化、つまり預かる時間が最高で1日11時間まで保育料がタダになる法律を実施することを発表している。大変大きな社会変革の波が来ている。今、すやすや眠っている赤ちゃんは、まさか自分がこれから小学校までの6年間、11時間もの間親と引き離されて施設の中で育っていくことなど想像もしていないであろう。選挙権のない乳幼児たちの「ママと一緒にいたい」という泣き声に近い声は、国政には届かない。この政策は、表向き幼児教育の重要性を説き、(すべての幼児が教育を受ける権利がある)子育て世代の経済的な負担軽減といういいことづくめのように、メディアでも取り上げられている。しかし、未来を担う子どもたちにとって人格形成の基礎を育むこの時期に、本当に必要なのは「保育の無償化」という大人へ向けた金銭的なサービスなのであろうか? 便利さや規制緩和の裏で、問題視される長時間預かることによる子どもたちの心のケアや安全、家族という営みの崩壊、雇用される保育者の労働負担、それが引き金にストレスのはけ口は弱者へ向かうという虐待問題など、山積みの問題を子ども側にたって議論することなく、利便性の方向へこのまま進んで大丈夫なのであろうか。今、子どもに寄り添い「保つ」ことをしなければ、今後の人間が人間らしく育ち、生きていくことが「保てなくなる」と思うのである。
本来保育の「保」という字は、子どもの今を「たもつ」ことである。絶対的な信頼を親に寄せて、安心という心地よい世界で育っていくことを「たもつ」のが大人の責任である。その漢字の成り立ちからも、人が子どもをおんぶしている姿を現したものであるという。これは、人間が昔から受け継がれてきたあたたかい子育ての風景である。何もできない幼き子が、大人に委ねてきた信頼を基盤に社会へ旅立つまで、引き受けてやるという関係こそが、この字の意味する本質なのだと思う。そして、この風景を「たもつ」ことが、私たもつ保育に携わる者の使命だと考える。戦後、これからの日本は乳幼児期の教育が重要であるとして、幼稚園、保育園を創り地域の子どもたちやその家族の幸せを応援してきた。その中心となったのは、全国にあるお寺であった。創立者であったお寺の住職たちは、境内地を開放し、「ほとけの子」の育成を祈り「保ち」ながら今日に至っていると信じたい。現在、宗派を問わずお寺の幼稚園、保育園数は、公益財団法人 日本仏教保育連盟に加盟している園だけでも1070園とされる。日蓮宗のお寺が経営する幼稚園、保育園も120園以上全国に存在している。どの子ども達にも仏性が内在し、その種を育み咲かすことに私たちの使命がある。見宝塔品第11の後半に、「此の経は持ちがたし」法華経をたもつことがいかに困難であるかが語られる。この時代だからこそ平和を導く地涌の菩薩の出現を「保育」の中に見出し、お寺の園長たちが子どもの声を発信すべき時なのではないだろうか。「保」のにんべんを取ってみると「呆ける」となり、気が抜けて放置するという意味を持つことを自覚してほしい。
(論説委員・早﨑淳晃)

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2019年2月1日号

災害と共助の心

大きな自然災害が相次いでいる。西日本の豪雨での被災者が未だに仮設住宅で苦労されているという時、瀬戸内海では大切な橋が破壊されて不便な生活を強いられるという災害も起きた。九州以南の島々を含め、火山の噴火が相次ぐようにもなっている。報道されないものまで含めると世界ではマグニチュード6程度の地震は1週間に数回起きているという。これらの災害がマスコミで報道されると、若い人たちが現地にはせ参じるという素晴らしい風潮が全国にできあがっているのは、老僧としては頼もしい限りだ。
ところが、あまりにも次々に災害が起きるので、新しい事件事故の話題がクローズアップされると過去の災害に関する報道頻度が急激に低下する。ほとんどの情報をテレビやラジオに頼ることの多い我々は、以前の事故はもう解決済みであるかのような印象を受け、忘れ去ってしまうことが多い。
被害の大きさはニュース性にも比例するらしく、1万人の被災者と数人の被災者とでは扱いが大きく異なる。しかし、それら事件事故の個々の被害者にとっては苦しみに変わりはない。縁のある誰かがいつも見守っている必要があるだろう。
今年7月23日、ラオス南部のアタプー県で建設中だったセ・ピアン、セ・ナムノイダムが崩壊し、多くの犠牲者と行方不明者を出した。例によって日本での報道は微々たるもので、事故そのものを知らない人も多い。こちらは天災というより人災の要素が多いのだが、被災者から見ればそれはさしたる問題ではない。
10日後には早速現地に出かけ、情報を入手して自ら主催するNGOで募金活動を始めたところ、宗門寺院や僧侶、檀信徒も含め多くの人たちに協力をいただき、2ヵ月で340万円にもなった。これは現地で小さな小学校の校舎を建設できる金額だ。今後もアフリカや中南米などでも同様の出来事が起こりうるが、その時にはぜひ、そこに縁のある方や団体に動いていただきたい。その時、僧侶が先頭に立ったらどれほど力強いことだろうか。
まだ社会に支持されている仏教が、生きている人たちのために動いている姿は、未来を変えるかもしれないとさえ期待している。
それにしても自然災害が多すぎるので、「人間は罪深く生まれてきた」とするキリスト教思想の原罪意識の影響から、全て人間が悪いと考える人もいるのだが、仏教徒にその価値観は不要だ。
仏種が具わっている全ての生物の根本は「善」なのである。それでも、我々の行いにどこか間違いがあるのではないかという自省も大切だが、最近の異常気象は地球が宇宙規模の影響を受けたことによる気候変動の一環であり、人間如きが対処してどうなるというものでもないそうだ。そんな中で私たちにできるのは助け合うことだろう。同じ宇宙の細胞として生きる同胞に手を差し伸べようではないか。祈りは実践があって初めて叶うものだ。身口意三業の受持とは、お題目の唱え方を言うのではない。成仏は誰もが平和に生きられる世界が実現したときに得られるものだ。
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してゆくことである。われらは世界の誠の幸福を索ねよう。求道既に道である」(宮沢賢治)
(論説委員・伊藤佳通)

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