論説

2018年12月20日号

数え歳に思う

東くめ作詞、滝廉太郎作曲の正月の歌。
もういくつ寝るとお正月 お正月には凧あげてこまをまわして 遊びましょう。 はやく来い来い お正月
明治26年(1893)、文部省から発表された唱歌(出雲大社宮司千家尊福作詞)。
年の始めの例とて終なき世の めでたさを松竹たてて 門ごとに祝う今日こそ 楽しけれ
このような正月を寿ぐ歌は近年唄われなくなってしまった。それに代わりクリスマスソングは大盛況。そういえば、コマ回し、凧揚げ、羽子板遊びという正月の風物詩は何処かへ行ってしまったようだ。
室町期の禅僧一休宗純(1394~1481)は、正月を次のように詠んでいる。
門松や(正月や) 冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし
ところが、この歌の意味内容が現代人にはさっぱり判らなくなっているようだ。
冥土は「天国」に、一里塚(人が約1時間に歩く距離は1里、昔、東海道などの街道に設けられた)は約3・9㌔。冥土も一里塚もわからない世となってしまった。それでは、「めでたくもありめでたくもなし」とは、一体どういう意味なのか。それは「数え歳」のことを知っていないと分からない。私たちはお正月を迎えると、「おめでとうございます」という。確かに新年を迎えることはめでたい、「1年間生かさせていただき新しい年を迎えて誠にめでたい」と。
大事なことは、1年の幸せを運んでいらっしゃった天の神さま「歳徳神(歳神さま)」をわが家にお迎えし、過ぎ去った歳の無事息災を感謝し、来る1年間の招福を願い、さらに歳神さまからひとつ歳を賜るという行事が正月なのである。年の始めに、元旦に歳をいただく、だからこそ「おめでたい」。「数え歳」には精神文化が内包されているといってもいい。
門松は歳神さまを家に迎え入れるための依り代という意味合いがあるという。また、「お年玉」は「お歳を賜る」→「お歳魂」が語源であるともいわれている。「お年玉」も魂に由来する言葉かも知れない。
一休禅師は、正月を迎えひとつ歳を重ねて「めでたい」が、ひとつ歳をとることは「冥土」に逝く日も近くなる、だから「めでたくもなし」といったのであろう。
私は檀信徒が亡くなると、白木の位牌に法号、命日、俗名と享年という文字の下に数え歳を記す。何故、数え歳を書くのか。東洋的な生命観には、生きとし生けるものに0(零)という数字はあり得ない。人は母の胎内に宿った時から「いのち」をいただく。「歳神さま」から生きる時を頂戴している。
従って、数え歳の上には「享年」という文字を書く。「享年」とは、「享けた歳」、誰から受けたのか? それは「歳神さま」から享けた歳に他ならない。数え歳と「享年」という語にも私は大いなる精神性を感じる。
最近、「享年〇〇」の下に「歳」という文字を記す葬儀社や仏具屋がある。それは望ましい使い方ではないとある漢学者が語っていた。私もそれを首肯する。「馬から落馬」と同じことで、「享けた年〇〇歳」となってしまうからだ。マスコミの方が確りと報じている。有名人が亡くなると、「享年〇〇」と表記している。
満年齢も良いが、数え年の復権を願う1人である。数え歳には日本古来の精神文化が含まれていると思うからである。(論説委員・浜島典彦)

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2018年12月10日号

魔王のなかに仏性を見出す

大曼荼羅ご本尊の中段の右端に、第六天魔王という名が列せられている。
なんで魔王なんていう恐ろしい者が、ご本尊の中に書かれているのだろうかと首をかしげる人もいるかもしれない。
この魔王は、お釈迦さまが菩提樹の下でお悟りを開こうとなさった時、これを阻止しようと徹底抗戦した恐るべき者。
ところが、この魔王の実体は神なのである。そのことをご承知だろうか。
神と言っても、キリスト教やイスラム教のような一神教の神ではない。インドは昔から多神教の国。この点では古代日本の神々に類似している。
では、その神々の1人が、なぜ、魔王と呼ばれるのだろう。
それを知るためには、まずは第六天という言葉から考えてみなければなるまい。
インドの神々の世界、天にはいろんなランクがあるのだ。
その中で第六天は他化自在天と呼ばれ、欲界―私たち生命あるものが住む世界―の最高の位置にある。
仏教語辞典によれば、「この天に生まれたものは、他の天の化作した欲境(欲望の対象)を自在に受用して楽を受けるという」と説明されている。要するに、欲しいものは、何でも手に入る世界ということらしい。
まさに天国そのもの。私たち凡夫が思い憧れている世界だと言えるのではなかろうか。
しかし、そこは魔物が棲む世界でもあるのだ。
他化自在天という言葉をよく考えてみたい。他の者を自由自在に変化せしめる天だと読めるではないか。
良い方向に変化せしめようというのであれば、問題はない。だけど、人を自分の勝手気ままに操ろうとすれば、それは神の所業というよりも、悪魔の仕業と考えた方がいい。
天という言葉は、上の世界という意味と、その世界を支配する者との2つの意味を有している。
今の国際社会に目を向ければ、覇権を争う為政者たちが跳梁跋扈している様子が窺える。
天下統一を夢見た織田信長を人びとが第六天魔王と評した気持ちを分かるような気もする。
お釈迦さまでなければ、とても調伏できるような相手ではないだろう。
その手強い相手を退け、お釈迦さまがお悟りを開かれたのは12月8日、明けの明星をご覧になられた時のことだったと仏伝は語っている。
この日を成道会と称することは、今さら述べる必要もあるまい。
しかし、この日が、あの忌まわしい太平洋戦争の開戦の日であったことは、決して忘れてはならないだろう。
現代にあっても、第六天魔王は暗躍し続けていると考えるべきだと思う。
本論に戻る。では、なぜそのような恐ろしい者が、ご本尊に列せられているのだろうか。
たしかに、お釈迦さまは魔王を退けられはした。しかし、その存在までも否定までもなさっていないのである。
むしろ、そのような者の心の中にも仏性はあり、法華経の光に照らされるならば、守護神ともなり、成仏への道が開かれるというのが、長い仏教の歴史の中にあって、宗祖が初めて顕された大曼荼羅ご本尊の世界観だと知るべきだろう。
そう心得、お互い、しっかりお題目を受持し、自身の成仏を願い、世界の平和を祈ろうではないか。
(論説委員・中村潤一)

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2018年12月1日号

法華経の行者たらんと志す

平成19年に始まった宗門運動「立正安国・お題目結縁運動」は、あと3年半ほどで区切りを迎える。
この運動の特徴の1つが、「妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十」に説かれる、常不軽菩薩の但行礼拝(ただひたすら人を敬い続ける)という行動に根ざしていることにある。そしてそれは、法華経と日蓮聖人の教えの根本であるから、運動が終わっても不断に行じなければならない宗教的実践項目(理論・理念ではなく現実に実行すべき事柄)でなければならない。こういった観点から少し考えを進めてみたい。
日蓮聖人が身命をかけて打ち立てた教義教学、実践は、広大で深遠なだけでなく、宗教的重要概念も多い。そのため、700年以上の歴史の中で、多様に展開したり、逆に集約されたりして今日に至っている。教義教学、実践の多元的状況が続いていると言ってもいい。
そんな日蓮聖人の教えの中で、実践的に最も重要なものの1つが、「法華経の行者」という聖人独自の基本姿勢である。すなわち、妙法蓮華経という経の中に自らの立ち位置を定め、法華経そのものを主体的に生きようとされたのだ。
もちろん、法華経には、虚空会(空中に浮かぶ多宝塔の中から教えが説かれる)や恒河沙(数の単位でガンジス川の砂の数)などの神話的とも言える部分もあるから、そっくりそのまま、法華経の通りに実践することは不可能だ。しかしながらその中には、現実に対応する教説が多く存在するのも事実であり、聖人はそこに着目されたのだ。
ただし、漠然と「法華経の行者」と言うと、法華経の行者=日蓮聖人という図式が浮かび、法華経の行者という言葉が聖人の自覚に由来するにもかかわらず、聖人を讃える宗教的讃辞として用いられ、私たち後世の日蓮宗徒に直接関わるものではないようにも感じられてきた。
しかしそれは本来、後世の日蓮宗徒が法華経の行者たらんとすることを否定するものではないのではないか。
特に、聖人が『聖人知三世事』の中で、「日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」と述べておられることに注目したい。自らが法華経の行者たる所以を、常不軽菩薩が貫いた但行礼拝の事跡を引き継いでいるからだとされている。
よって、常不軽菩薩の但行礼拝を現代的に適用し、「いのちに合掌」をスローガンに、「敬いの心で安穏な社会づくり、人づくり」を目標に展開してきた現在の運動は、「不軽の跡を紹継するの故に」、法華経の行者として取り組む信仰運動と言えるのではなかろうか。
法華経の行者となって但行礼拝の精神を持ちつつ、敬いの心を現代社会の中で具現化していかなければならない。数度の流罪などの法難は、現代の私たちでは耐えられるはずもなく、聖人が法華経の行者として残された事跡の一分にも満たないとしてもだ。
私たちは、現在の運動が、平成34年3月に、一応のけじめを迎えても、但行礼拝の精神を忘れてはならず、法華経の行者としての誇りを実現していかなければならない。
誤解しないでほしいのであるが、次期の宗門運動でも但行礼拝を軸に行うべきだと言っているわけでは決してない。それは、その時の指導的立場の方々が決めることだ。そうではなくて、あと3年半続く現在の運動の中で、より深く但行礼拝の精神を身につけ、それ以降も法華経の行者たらんと志していただきたいと願うだけなのである。(論説委員・中井本秀)

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新年のご挨拶。

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