2018年12月10日
魔王のなかに仏性を見出す
大曼荼羅ご本尊の中段の右端に、第六天魔王という名が列せられている。
なんで魔王なんていう恐ろしい者が、ご本尊の中に書かれているのだろうかと首をかしげる人もいるかもしれない。
この魔王は、お釈迦さまが菩提樹の下でお悟りを開こうとなさった時、これを阻止しようと徹底抗戦した恐るべき者。
ところが、この魔王の実体は神なのである。そのことをご承知だろうか。
神と言っても、キリスト教やイスラム教のような一神教の神ではない。インドは昔から多神教の国。この点では古代日本の神々に類似している。
では、その神々の1人が、なぜ、魔王と呼ばれるのだろう。
それを知るためには、まずは第六天という言葉から考えてみなければなるまい。
インドの神々の世界、天にはいろんなランクがあるのだ。
その中で第六天は他化自在天と呼ばれ、欲界―私たち生命あるものが住む世界―の最高の位置にある。
仏教語辞典によれば、「この天に生まれたものは、他の天の化作した欲境(欲望の対象)を自在に受用して楽を受けるという」と説明されている。要するに、欲しいものは、何でも手に入る世界ということらしい。
まさに天国そのもの。私たち凡夫が思い憧れている世界だと言えるのではなかろうか。
しかし、そこは魔物が棲む世界でもあるのだ。
他化自在天という言葉をよく考えてみたい。他の者を自由自在に変化せしめる天だと読めるではないか。
良い方向に変化せしめようというのであれば、問題はない。だけど、人を自分の勝手気ままに操ろうとすれば、それは神の所業というよりも、悪魔の仕業と考えた方がいい。
天という言葉は、上の世界という意味と、その世界を支配する者との2つの意味を有している。
今の国際社会に目を向ければ、覇権を争う為政者たちが跳梁跋扈している様子が窺える。
天下統一を夢見た織田信長を人びとが第六天魔王と評した気持ちを分かるような気もする。
お釈迦さまでなければ、とても調伏できるような相手ではないだろう。
その手強い相手を退け、お釈迦さまがお悟りを開かれたのは12月8日、明けの明星をご覧になられた時のことだったと仏伝は語っている。
この日を成道会と称することは、今さら述べる必要もあるまい。
しかし、この日が、あの忌まわしい太平洋戦争の開戦の日であったことは、決して忘れてはならないだろう。
現代にあっても、第六天魔王は暗躍し続けていると考えるべきだと思う。
本論に戻る。では、なぜそのような恐ろしい者が、ご本尊に列せられているのだろうか。
たしかに、お釈迦さまは魔王を退けられはした。しかし、その存在までも否定までもなさっていないのである。
むしろ、そのような者の心の中にも仏性はあり、法華経の光に照らされるならば、守護神ともなり、成仏への道が開かれるというのが、長い仏教の歴史の中にあって、宗祖が初めて顕された大曼荼羅ご本尊の世界観だと知るべきだろう。
そう心得、お互い、しっかりお題目を受持し、自身の成仏を願い、世界の平和を祈ろうではないか。
(論説委員・中村潤一)