ひとくち説法
2018年11月20日号
いろはにほへと
幼少の頃、師父に暗唱させられた「いろはにほへと」の歌。「色は匂へどちりぬるを、わが世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢みし酔ひもせず」。これを訳すと「色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。この世に生きる私たちとていつまでも生き続けられるものではない。有為、すなわち因縁により生じたさまざまな煩悩の心の山を今日越えることができた。もはや悟りの世界に至れば煩悩の酒に酔うこともないのである」。私たちは移ろいゆく人の世を生きて、楽しい出来事に出会ったり、苦しいと思えるような局面を迎えたりする。そうした生活の中で、お祖師さまは「苦をば苦と悟り楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経を唱えて生きていきなさい」とお示しになられている。今一時でも、人や仏とともにこの世で生かせていただけることに感謝の心を忘れてはならない。「いろは」の歌を教えてくれた師父に「感謝」。
(長崎県布教師会長・今泉智薬)
2018年11月10日号
合掌の心
かつて永六輔さんがラジオで問題にして論争を生んだことがありました。学校の給食で合掌して「いただきます」と唱和することへのクレームが保護者からきたことです。「給食費を払っているので食事をするのは当然の権利。公立学校に合掌という宗教行為を持ち込むのはおかしい」というのがその人の言い分。その結果、笛の合図で給食を食べ始めるようになったとか。これに違和感を持つ人も多いのではないでしょうか。肉にしても野菜にしても元は尊いいのちです。だからいのちをいただきます。いのちの問題は理科だけに正解を求めるわけにはいきません。真のいのちの理解には宗教の助けも必要なのでは。
いのちを唯物的に、あるいは損得だけで割り切ってしまう。心が伴わない報恩感謝のない教育では、悪知恵が働く賢き鬼を作り出すだけになりかねません。本当に美味しいものを美味しくいただくこともできないと思います。
(佐賀県布教師会長・辻雅英)
2018年11月1日号
「南無」と「妙法蓮華経」
日蓮聖人は「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがえる義なり」(『法華題目抄』)と教えておられます。お題目を唱えることで、昨日までの命は「南無(帰命の意)」で仏さまにお返しをして、「妙法蓮華経(久遠の命の意)」で新たな命を頂くことができます。これは、仏さまと命の遣り取りができるということです。これを「妙」といいます。すると、人生の良いことも悪いことも全てが「順調」と受け入れる「受容力」が湧いてきます。これを「蘇生」といいます。そして正しい祈りは、仏さまやご先祖さまに守られてしだいに「生き抜く力」をもたらしてくれます。これを「よみがえる」といいます。
「妙」で仏さまと繋がり、仏の子として「蘇生」し、地涌の菩薩の自覚が「よみがえる」のです。希望をもってお題目「南無妙法蓮華経」をお唱えし、お題目と苦楽をともにしながら、思いを形にする新たな1日を始めましょう。
(熊本県布教師会長・山口義人)