2018年11月1日
実りの秋に思う
自己の細やかな経験知であるが、少年刑務所の教誨師そして保護司活動を通して、彼らの共通する点の1つに他者への責任転嫁があるように感じる。
また何か事に対して過度の期待を抱いていることにも気づく。私自身がそうであるが、他者に何かをして差し上げた時、ある程度努力した時は顕著で、「こんなにしてあげたのにこの程度しか喜ばれない」「あれほど、努力したのにこんな結果しか出ない」など、いわば勝手に期待して喜びの前借りをしているようなものである。挙句、他人や成果に対し腹を立てる浅ましい小さな己の姿があらわになる。
今年に入り筆者は檀信徒研修道場と僧道林に出向する機会を得た。
檀信徒研修道場とは、宗門運動「立正安国・お題目結縁運動」推進のための信行推進者を養成することを目的に年度中2回開設される。本年度第1回の様子は本紙6月10日号に掲載され、全国から集まった檀信徒が信仰を深め合う信行の姿が報じられた。第2回は10月16~18日の日程で身延山で実施され「報恩~身延の祖師に学ぶ」をテーマに実施された。毎回、実り多い研修が行われリピーターも多く、所管の伝道部では各教区からの新たな参加者を呼びかけている。
他方、僧道林とは信行道場35日間の修行を前に、僧道生活の経験の少ない沙弥が集中して訓育指導を受ける出家の教育機関である。信行講話をはじめ法式声明や読経練習・坐作進退・衣帯の畳み方さらには受食作法の習得を目指す。
檀信徒研修道場、僧道林いずれも「三宝給仕」を信行の基本とする。『拾遺和歌集』にある
「法華経を我が得しことは薪こり菜つみ水汲み仕えてぞ得し」とは、提婆達多品に示される「法の為の故に精勤し給仕」する弟子の師に仕える姿を詠んだものである。
仏宝【久遠実成本師釈迦牟尼佛】、法宝【妙法蓮華経】、僧宝【日蓮聖人】がそなわる大曼荼羅ご本尊に見守られ今の自己があることに感謝し営む報恩のお勤めを「お給仕」という。檀信徒であれば菩提寺に詣で、ご本尊の前にぬかずき合掌礼拝し、花を供え香を手向け、心からのお題目をお唱えする。この1つひとつの行いが、ご本尊に捧げるお給仕となる。
2016年、JTのコマーシャルに「人の想いは見えるものではなく、気づくものでした」(コピーライター米田恵子さん)とあった。私どもはお給仕を通して、み仏やお祖師さまの「生き身」を感じ気づくことができる。
今年9月2日付『朝日新聞』天声人語では、精神科医の宮地尚子さんがエッセーの中で書いている「いいこと日記」を紹介していた。
▼その日の良かったことを三つ、簡単にメモするだけという。悪かったことはあえて書かない。どれほど嫌なことがあったとしても▼そんな日記を続けて宮地さんが見えてきたのは「いいことはたくさん起きているのに、それらを当たり前のように受けとめて、じゅうぶん味わっていなかったなぁということ」。なぜうまくいかなかったのかと不満を持ち、反省することに多くの時間とエネルギーを費やしていたことも分かったという。
(天声人語より引用)
私たちは、日々、生身の仏祖に、「いいこと」を添えた報恩のお題目を唱え、お給仕を重ねる時、おのずと有ること難しの「いのち」に合掌できるのではあるまいか。そして今、生きとし生けるもの全てにも合掌を広げる季を迎えた。
(論説委員・村井惇匡)