2018年10月20日
国のあるべき姿
戦後生まれの私は、いつの間にか70歳を越え、そのささやかな人生の歩みの中で、四季折々の風景が回り灯籠のように浮かんできます。春の野に黄色い絨毯を敷きつめたような菜の花畑。初夏の夕暮れとともに田圃に乱舞する蛍の群れ。灼熱の太陽のもとでの川遊び。秋には豊かな稔りの穂波。冬は雪に輝く山脈。
このような情景がつぎつぎと浮かび上がるとともに、その折々に、多くのことを教えてくださった人びと。親しく遊んでくれた人たちの顔や言葉が思い出されるのです。
けれども、いっぽうでは、季節の移り変わりの中で、自然の猛威が私たちの生活を、根底から揺り動がした出来事が思い出され、恐怖心が身をちぢめてしまいます。豪雨によって決壊した大河の流れ。それにともなう人びとや家畜にいたるまでの犠牲。台風による甚大な被害。そして大地震、大津波など。
今年も、季節は春から夏、そして秋が廻ってきましたが、同時に全国各地で大地震、大洪水、猛暑、そして台風の脅威などがつぎつぎと襲い、はかり知れない災害をもたらしています。その中にあって、小さな私のできることは、被災された方々に対するお見舞いのことばであり、安穏なる国土への祈りなのです。
このように私たちは、自然環境と不可分の関係性をもっていると同時に、歴史的・人為的社会、共同体とも切り離せない存在です。
ところで、私がものごころのついたときから、疑問をもち、それが今日まで解決されないままでいることに気づかされることがあります。
分家に育った私は、隣の本家の仏壇を拝むとき、中央にご本尊が祀られ、その下段には、またいとこ(はとこ)の2人の男の子のセピア色をした遺影が祀られていました。2人は、昭和20年(1945)3月下旬の小学校の終業式の帰り、アメリカ軍の艦載機の襲撃によって殺戮された兄と弟です。
当時、村ごとに集団による登下校が義務づけられ、私の集落の小学生20余人は、下校時に空襲警報のサイレンにうながされ、林の中の大樹の根もとに折り重なるようにしてお互いの身を守ったのです。しかし、無残にも、その子どもたちに機関銃は向けられたのです。
集落の氏神さまを祀る神社の境内の一隅には、石像のお地蔵さまが建立され、台座の部分に、死去した子どもたちの名前が刻まれていました。
昭和16年(1941)12月8日、日本は対米英宣戦布告し、戦争へと突入するなかで、日本の所有している軍事力が、どれほどのであるかを、客観的に分析していたのであろうか。そして昭和19年(1944)以降、日本の本土が襲撃されるような状況下でも、なお戦い続けなければならなかった理由とは、いったいどこにあったのであろうか、と今も思いつづけています。
800年前の『方丈記』は、すぐれた為政者は、万民に対する「あはれみ」という、他者を思う心をもって国を治めるものであると断言しています。
日蓮聖人が『立正安国論』を前執権北条時頼に奏進されたのも、まさに為政者のあるべき姿を仏法の立場からただされたものと受け取ることができます。
そのように考えるとき、まさに私たちは、上位者の意見に盲従し、みずからの思考を停止させることなく、この国のあるべき姿を問いつづけることの大切さを痛感しているのです。
(論説委員・北川前肇)