2018年9月20日
法味考
一般に、お客さまをもてなすために四方に食材を求めて奔走しておいしい食べ物を準備することを「ご馳走」というが、それでは、恐れ多いことではあるが、私たちにとって最も尊い存在であるお釈迦さまをもてなすための最良の「ご馳走」は何であろうか。
お釈迦さまや菩薩さま、諸天善神は、「仏法=仏の教え」を味わうことを唯一最高の楽しみにしているとされている。お釈迦さまは、仏法という自らの悟りの境地を法味として満喫して安住し、広く衆生に施しておられるし、菩薩さまは仏法をもって衆生の教化に当たっておられる。そして諸天善神は法味を味わうことによって威光勢力を増して衆生救済の力を発揮する。
ところで、「仏法=仏の教え」といってもいろいろな内容がある。「涅槃経」では、お釈迦さまの説法を、牛乳が次第に発酵して熟していく過程に例えて五段階に分類している。初めが牛の乳そのもので(乳)、酪(らく)、生酥(しょうそ)、熟酥(じゅくそ)、そして最後が最上の醍醐(だいご)であり、この醍醐を味わえばどのような病でも癒えるとする。
このように、お釈迦さまの説かれた教えとしての「法味」にはさまざまなものがあるが、法華経こそがお釈迦さまの教えの最上のもの、すなわち醍醐であり、そのエッセンスがお題目に他ならない。従って、私たち日蓮聖人の門下が「法味」と言った場合、それは法華経及びそのエッセンスであるお題目をさすことになる。
日蓮聖人は、諸天善神が「法味」を十分味わうことができないと、本来持っているエネルギーが衰退し、守護の力が発揮できなくなる。それが社会の活力を失わせ、混乱が起こる源であるのに、ほとんどの人がそのことに気づいていないと、多くのご文章やお手紙で指摘している。このことは、現代にも当てはまることである。
私たちはお釈迦さまから既に最高の「ご馳走」を受けていることになるので、その「ご馳走」に私たち凡夫の作る「ご馳走」でお応えすることは全く不可能なことである。法味を受け取ることができた感謝と敬いの気持ちを、心と行いと言葉で供養することによって、お釈迦さまに捧げるしかない。
ところで、時に誤解があるのではないかと思うことがある。先に触れたとおり、超熟醍醐の法味である法華経とお題目は、本仏釈尊から日蓮聖人を通して慈雨として常に私たちに降り注いでいる。それを受け取った私たちは、自分自身がありがたく味わうだけではなく、独り占めすることなく周りの人々におすそ分けするのである。この流れの方向を十分弁えなければならない。
太陽の慈光の恵みを私たちは受け取って生きている。お釈迦さまの教えはあたかも太陽の光のように私たちに恵みをもたらしている。私たちが鏡となって光を反射し、光の当たらないところに光を行き渡らせることはできるとしても、私たち自身が太陽と同等の光を発することは難しい。また、慈しみの雨は天から私たちに降り注ぎ、私たちはその滋養をそれぞれ力量に応じて受け取るのであるが、私たち自身が慈しみの雨を降らせることは至難の業である。
つまり、私たちの唱えるお題目や法華経を、どうぞ味わい下さいとお釈迦さまや日蓮聖人にお返ししようとすることは、方向が逆になり、僭越の謗りを免れ得ないのではないかと思うのである。(論説委員・柴田寛彦)