論説

2018年4月20日号

中央教育審議会にもの申す

身延山大学の学長を拝命して早や7年4ヵ月の月日が経つ。学長の業務は多岐にわたる。別けても他の私立大学、山梨県内の大学、仏教系大学、私大協(私立大学協会 加盟校400余校)とお付き合いすること、会議も多い。そこで実感したのが、国の初等・中等・高等教育の全般にわたって建議する組織「中教審(中央教育審議会)」のメンバー選定に関わる疑念だ。
中教審は30人の委員で構成されている。この中教審は、昭和27年(1952)6月、「文部大臣の諮問に応じて教育に関する基本的な重要施策について調査審議し、及びこれらの事項に関して文部大臣に建議する」機関として設置された。以降、日本のあらゆる教育の基本理念・体制等を建議する組織としてその任に当ってきた。最近問題視された大学設置についても、中教審傘下の部会で議論されている。
ここで問題にしたいのは、人選についてである。なるほど30人の委員のメンバーは赫赫たる経歴の方ばかりである。しかしながら、私の知る限り仏教系大学、仏教の薫りのある人が1人も選ばれていないという事実である。一方、ミッション系大学の学長あるいは理事長は必ずといっていいほど委員となっている。数は複数が多い。現在もそうである。
数年前、中教審のメンバーとして活躍していたある著名女性作家が大手新聞のコラムに論陣を張っていた。「いじめ」についてであったが、その改善策として家庭内での宗教教育が必要であることが綴られていた。その内容は私にとっても至極当然といえる主張であったが、中教審あるいは教育刷新会議のメンバーとしてキリスト教的発想のみを持ち込まれる体制は如何なものかと思料する。
私はキリスト教を否定する論者ではない。仏教的思考も取り入れ、人選もすべきだと思うのである。明治6年(1873)2月、「禁令の高札」が撤廃され、カソリック・プロテスタントを問わずキリスト教は日本での布教戦略として、教育と医療に力を注いだ。札幌農学校の初代教頭として赴任したウィリアム・スミス・クラーク博士の膝下に侍した内村鑑三・宮部金吾などの人びとが教育に関わり、その裾野は大きく拡がり、今日の状況となっている。また、医療の分野もしかり。現在、日本の私立大学(604大学)の約22%がミッション系の大学であり、仏教系は短期大学を含めて約60余大学(日蓮宗は3大学)である。
5年ほど前、関東のある大学で仏教系大学会議が持たれた。その時の講師は、文部科学省の私立大学担当課長であった。私は、素直に、真剣に、「応えは人事のことなので言い難いでしょうが」と前置きをして、中教審の人選について尋ねた。期待通り応えはモゴモゴしたものであった。私の質問が終わった時、拍手喝采であったが、逆に寂しさを感じてしまった。仏教系大学はそう思いつつ中教審の舞台に乗れない忸怩たる思いを持っている。
日本の私立大学は、私大連(私立大学連盟約200大学 立正大学も加盟)と前記の私大協の2組織に纏められている。両組織の重役には数多くのミッション系大学の学長・理事長が就任し、霞が関でさまざまなロビー活動を展開されている。
私はいわゆる文教族といわれる国会議員に会う毎に中教審ついてもの申している。繰り返すが、私はキリスト教を排除せよといっているのではない。仏教にも均等の機会を与えていただけないかと思うだけである。中教審は日本の教育の基本理念を構築する場であるから。
(論説委員・浜島典彦)

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2018年4月10日号

誕生偈「天上天下唯我独尊」

ピッカピカという言葉が一番似合うのは4月、この季節。
寺の前を通る新1年生の顔もランドセルも、ピッカピカ。
「お早う」と声を掛ければ、「お早うございます」と元気な声が返ってくる。
境内の木々や草花も、これに負けじと新芽を伸ばし、花を咲かせ、若葉を繁られている。
いのちの躍動という言葉を実感させられるのが、この季節。
4月8日は、お釈迦さまのお誕生日。私たち仏教徒にとっては、いのちというものについて考えるのに最もふさわしい日ではないだろうか。
この聖日を祝い、各地、各宗、各寺で花まつりのいろんな行事は営まれてはいるものの、クリスマスに関するイベントに較べれば、世間の人びとの関心度には雲泥の差を感じさせられる。
その原因に関しては、いろんなことが考えられるが、お釈迦さまの教えを広めなければならない立場にある私たちの努力不足にも、その一因はあるような気がしてならない。
今、我が日蓮宗は日蓮聖人の降誕八百年を目途として、〈いのちに合掌〉を合言葉に、宗門運動を展開している。
それならば、いのち輝くこの季節に誕生なさった教えの主であり、親でもあられるお釈迦さまを、もっともっとアピールすべきではないだろうか。
そこで、誕生偈と称される、「天上天下唯我独尊」という言葉について、皆さんと一緒に考えてみたいと思う。
この言葉の解説として、国語辞典の権威ともいえる広辞苑には、(釈尊が生まれた時、一手は天を指し、一手は地を指し、七歩進んで、四方を顧みて言ったという語)宇宙間に自分より尊いものはないという意と出ているが、果たして、この説明だけで、人は納得するだろうか。
それと言うのは、同じ広辞苑の「唯我独尊」の項には、①として、天上天下唯我独尊の略と説明しながらも、②には、世の中で自分一人だけがすぐれているとすること。ひとりよがりとの説明も出ているからである。
他人の傲慢な態度を批判するのに、この言葉が、②の意味として使われることが多々ある。
そんなケースに接する度に、お釈迦さまは、そんなつもりでこの言葉を口になさったのではないのにとの思いを強くする。
はっきり言わせてもらえば、日本人は、その程度にしか、お釈迦さまの言葉を理解していないのかと情けなくもなる。
仏教学者ひろさちやさんの著書、仏教の歴史Ⅰ『はじめに釈尊あり』(春秋社刊)には、この誕生偈を意訳して、
「あめがうえ、あめがした
われにまされる聖者なし」
との言葉が記されているが、これでは、広辞苑の解説と余り違いはないように感じられる。
それならば、誕生偈は、お釈迦さまご自身の言葉だと受け止めるよりも、お釈迦さまを渇仰恋慕する人びとによって語り継がれている言葉と考えてみては、どうだろうか。
これは、人びとが、「世の中に、お釈迦さまほど素晴らしい方は、2人といない」と讃嘆した言葉ですと説明すれば、現代人でも、ナルホドと納得してくれるかもしれない。
だけど、この誕生偈には、もっと深いお釈迦さまの思いが托されている気がしてならない。そう考えた時、私は、「天にも地にも、ただ1つ。我がいのちほど、尊きものはなし」との超訳を試みた。「あなたも私も、いのちは1つ、そこに気づいてほしいのですよ」との声が聞こえて来たような気がしたからである。 (論説委員・中村潤一)

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2018年4月1日号

人の心根に流れるもの

2月25日、韓国平昌冬季オリンピックが閉幕した。日本人が獲得したメダル数が、長野オリンピックのそれを超えた。選手たちの健闘を大いに讃えたいと思う。
なかでも、スピードスケート女子500㍍で、小平奈緒選手が見事に金メダルを獲得した。オリンピック3連覇を狙った韓国選手を抑えての優勝である。
そんな小平選手が金メダルとは別のところで世界から賞賛されている。オリンピック新記録を出した自分のレース直後にライバル選手のレースがあるため、口に人差し指を当てて、オリンピック新記録に沸く会場に静粛を求めたのである。そしてその後、1位が確定したところでウイニングランをしつつ、2位の韓国選手を抱きかかえ、「あなたをリスペクトしている」と健闘を讃えたという。このことが、世界、特に地元韓国の人びとの感動を呼んだようだ。
話題が急変して、しかも個人的な話で恐縮だが、昨年暮れに宗門の役職が任期満了となったのを機会に、寺庭婦人(お寺の奥さん)の負担を少しでも軽減しようと、自ら進んでごみ出しをすることにした。寺庭婦人の指導を受けつつ、月曜日から木曜日まで、ごみ出しのカレンダーに従って行っている。しかしこれがなんとも難しい。
ひとり暮らしをしていた40年ほど前は、「燃えるごみ」と「燃えないごみ」だけだったのに、今は、「燃やせるごみ」「燃やせないごみ」以外に、リサイクル上の観点から、「ガラスビン」「ガラス類」「カン類」「段ボール」「厚紙」「新聞」「雑誌」「ペットボトル」等々、細かく分別して、決められた日に出さなければならない。
こんなに難しいのだから、さぞかし間違う人も多いだろう、守らない人もいるだろうと思っていたが、あに図らんや、間違って出しているのをほとんど見たことがない。間違って出すと、「違反ごみ」のラベルを貼られた上に回収してもらえないから、すぐに分かってしまうのだ。一度だけ、段ボールの日に新聞を出して、「違反ごみ」のラベルが貼られているのを見たことがあるだけである。
このことを寺庭婦人に言うと、時々間違って出されてしまうものがあるが、他人のものではあっても、その都度引き取って正しい日に出しているという。ここでまた感心してしまった。その上、同じところにごみを出す近隣の人たちも同様のことをするというから、感心を通り越して感動すら覚えたのである。そして、ラベルを貼られた新聞を持ち帰らなかった自分を恥じることになった。
オリンピックの話とごみ出しのそれとでは、全く次元が違うようにも見えるが、私には、両者に共通する「思い」が感じられる。
それは、他者を大切に思う心であり、見知らぬ他者であっても優しく包み込む心である。人間の心根には常にこのような思いが静かに流れているように思われてならない。
現在、日蓮宗で展開中の「立正安国・お題目結縁運動」では、常不軽菩薩の但行礼拝の精神にならい、全ての人に対して敬いのこころを以て接することを勧奨している。このことは、上述の「思い」と見事に共鳴するに違いない。言い換えれば、人びとは、但行礼拝の精神、敬いのこころを受け入れるだけの土壌をすでに持っているということだ。
我々は、もっと自信を持って、確信を持って、運動を推進するべきだと思う。人びとが敬いのこころを自覚して、その精神を発揮できるよう、思いやりの土壌への下種結縁に励みたいものだ。  (論説委員・中井本秀)

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