論説

2018年2月20日号

葬儀について

 老後の生活をテーマにした記事や情報を読んでいて驚いた。老後のために準備したいもののなかに、葬儀費用が含まれているのだ。しかも生活費に次いで重要だとされていた。確かに葬儀は人生最後の大切な行事ではあるが、老後の準備に入れるほどの費用が必要なのだろうか。
 最近葬儀を出した一般の方々に聞いてみたことがある。すると、葬儀社との打ち合わせで業者のいうとおりにしていると300万円程度になるという。
 確かに義理の母親の葬儀を出したとき、小生が打ち合わせに臨んだにもかかわらず50万円もの費用がかかった。これでは一般の方で初めての葬儀ともなれば何も分からないで、いわれるままになってしまうことは想像に難くない。さらにこれに食事の接待が加わり、引出物がつく。
 葬儀ではこの2つ、即ち葬儀社と料理屋への支払いが最も大きな負担になっていると某新聞社が行ったアンケートに回答が来ているとかつて報じていた。
 次が寺への布施である。これは定価が決まっているわけではない。布施は、施主の財力に応じて出すものだから一概には言えないが、これも決して小さな金額ではない。それも含め葬儀費用を合計すると、国産のかなり程度の高い車が買えるくらいの金額になってしまう。それで葬儀費用が老後の蓄えの中に入っている意味がわかった。
 確かに、多くは葬儀社に支払う部分で、寺としては負い目を感じる必要はないように思える。だが、葬儀はあくまでも宗教行事である。それをどのように行えば故人に対して、より良い供養になるのかについては、僧侶が指導すべきであろう。従業員が多い葬儀社が利益を考えるのは当然だろうが、寺は檀信徒の側に立ってアドバイスをしてさし上げる必要がある。
 黙っていれば、寺に音響設備があるのにアンプやスピーカーを持ち込んだり、必要がないのにテントを張ったりしているが、これらはすべて施主の負担である。葬儀費用を少しでも減らすためのお手伝いを、寺はすべきであろう。それをしないから葬儀の費用というと全て寺に支払ったような感覚に陥る人が多くなってしまうようだ。
 踏み込んでいえば、仏教信仰を続ける中で死者への供養の持つプライオリティがどの程度であるかという点を僧侶も考える必要がある。魂魄が1つになることで生まれ変わるという儒教の思想では遺骨と墓がたいそう重要になり先祖供養が大きな目的になるが、釈尊の純粋な仏教にはそんな思想はない。
 千五百年の長きにわたって続けられて来た行事ではあるが、それが仏教では金科玉条とすべきではないとなれば、葬儀の形も変わってくるだろう。
 さらに重要なことは、誰もが望む先祖の「成仏」と、釈尊の成仏とは全く別なものであることを声を大にしてお伝えすることだ。百歩譲って同じものだと考えても、釈尊はご在世中に成仏されたのであり、死後の供養によって成仏されたのではないことを確認していただきたい。
 生きているときの自身の言動即ち、身口意三業のみが「成仏」を決めるのだということを理解していただくべきだろう。
 盛大な葬儀を僧侶が「良い供養ができました」などと発言することが、金銭の負担を助長させ、墓じまいから檀家離れへと進ませているのが現状である。
 巷では僧侶を呼ばない家族葬なるものが増えているそうだ。直葬や散骨も全て同根だろう。
 我々が生きる目的は、葬儀費用を蓄えるためではない。社会の細胞のひとつとして、それぞれの使命を果たすことだ。
(論説委員・伊藤佳通)

illust-ronsetsu

葬儀について

老後の生活をテーマにした記事や情報を読んでいて驚いた。老後のために準備したいもののなかに、葬儀費用が含まれているのだ。しかも生活費に次いで重要だとされていた。確かに葬儀は人生最後の大切な行事ではあるが、老後の準備に入れるほどの費用が必要なのだろうか。
最近葬儀を出した一般の人に聞いてみたことがある。すると、葬儀社との打ち合わせで業者のいうとおりにしていると300万円程度になるという。
確かに義理の母親の葬儀を出したとき、小生が打ち合わせに臨んだにもかかわらず50万円もの費用がかかった。これでは一般の方で初めての葬儀ともなれば何も分からないで、いわれるままになってしまうことは想像に難くない。さらにこれに食事の接待が加わり、引出物がつく。
葬儀ではこの2つ、即ち葬儀社と料理屋への支払いが最も大きな負担になっていると某新聞社が行ったアンケートに回答が来ているとかつて報じていた。
次が寺への布施である。これは定価が決まっているわけではない。布施は、施主の財力に応じて出すものだから一概には言えないが、これも決して小さな金額ではない。それも含め葬儀費用を合計すると、国産のかなり程度の高い車が買えるくらいの金額になってしまう。それで葬儀費用が老後の蓄えの中に入っている意味がわかった。
確かに、多くは葬儀社に支払う部分で、寺としては負い目を感じる必要はないように思える。だが、葬儀はあくまでも宗教行事である。それをどのように行えば故人に対して、より良い供養になるのかについては、僧侶が指導すべきであろう。従業員が多い葬儀社が利益を考えるのは当然だろうが、寺は檀信徒の側に立ってアドバイスをしてさし上げる必要がある。
黙っていれば、寺に音響設備があるのにアンプやスピーカーを持ち込んだり、必要がないのにテントを張ったりしているが、これらはすべて施主の負担である。葬儀費用を少しでも減らすためのお手伝いを、寺はすべきであろう。それをしないから葬儀の費用というと全て寺に支払ったような感覚に陥る人が多くなってしまうようだ。
踏み込んでいえば、仏教信仰を続ける中で死者への供養の持つプライオリティがどの程度であるかという点を僧侶も考える必要がある。魂魄が1つになることで生まれ変わるという儒教の思想では遺骨と墓がたいそう重要になり先祖供養が大きな目的になるが、釈尊の純粋な仏教にはそんな思想はない。
千五百年の長きにわたって続けられて来た行事ではあるが、それが仏教では金科玉条とすべきではないとなれば、葬儀の形も変わってくるだろう。
さらに重要なことは、誰もが望む先祖の「成仏」と、釈尊の成仏とは全く別なものであることを声を大にしてお伝えすることだ。百歩譲って同じものだと考えても、釈尊はご在世中に成仏されたのであり、死後の供養によって成仏されたのではないことを確認していただきたい。
生きているときの自身の言動即ち、身口意三業のみが「成仏」を決めるのだということを理解していただくべきだろう。
盛大な葬儀を僧侶が「良い供養ができました」などと発言することが、金銭の負担を助長させ、墓じまいから檀家離れへと進ませているのが現状である。
巷では僧侶を呼ばない家族葬なるものが増えているそうだ。直葬や散骨も全て同根だろう。
我々が生きる目的は、葬儀費用を蓄えるためではない。社会の細胞のひとつとして、それぞれの使命を果たすことだ。
(論説委員・伊藤佳通)

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2018年2月10日号

父母への孝養 ―知恩報恩―

 『父母恩重経』という経典があります。「母あるは幸いなり。父あるも幸いなり」というお釈迦さまの教えにのっとって中国で説かれたお経といわれています。作家・吉川英治の『宮本武蔵』でも「お杉ばあさん」が荒くれた無法者にこの経を読ませて改心させるというシーンがでてきます。その内容を抜粋すると以下のようになります。

 「慈悲深き母 子を宿せば 十月の月日満ちるまで おのが身と心を子に与え おのが身の病となるもいとわず かくて子は 人となる」
 「十月の月日満ち満ちて そのときくれば 陣痛の嵐吹き荒れて わが身は砕け散るごとく わが心は 乱れ狂うごとく 死に向かうほどに」
 「嵐去り安産のときは来た わが子の産声聞けば 母 死からよみがえる思いして われもまた 子と共に 生まれてきたと思う」
 「わが子を胸にいただく母は 美しく咲き香る花 子を育ていく喜びの日々 やがて年月は過ぎ 若き母も その姿は老いていく」
 「こおりつく霜の降る夜 雪積もる冬の朝 乾き温かな寝床にわが子を休ませ 冷たい床に父母は眠る」
 「胸にいだくわが子が 母の懐に大便をする 父の衣に小便をする 父母は少しもいとわず 子の着物を洗い流し 臭くてけがれたものとは 思わない」
 「わが子に食べるものを与えれば 苦いものは父母が食べ 甘いものを子に与える」
 「わが子のためならば 父母は罪となる悪業もいとわず 地獄へ落ちることさえも覚悟する」「父母は いつでもどこでもわが子から離れずに 見守っている 遠くに出かけた子があれば その顔の見えるときまで 寝ても覚めても心は騒ぐ」
 「この世に生きているときは わが子の苦しみを背負い この世を去れば わが子の守護を願う 父と母 父と母 父と母…」

 じっくり読んでみれば、父母の立場として得心がいくところが多いかと思います。また、自身が子どもだったころを思い出し、自分の親の姿を思い出した人もいたのではないでしょうか。
 では日蓮聖人は父母への「孝」ということをどのように思われていたのでしょうか?「父母の孝養こころにたらず…」(『開目抄』)と述べられていますが…。
 日蓮聖人は父母への孝養について次の言葉を遺されています。「孝とは高なり 天高けれども孝よりも高からず」。また「孝とは厚なり 地厚けれども孝より厚からず」(『種種御振舞御書』)と。
 父母への孝とは 天が高いといっても、その天よりも高く、地が厚いといっても、その地よりももっと厚いもので、人間として最も大切にしなければならない行いのこです。それでも日蓮聖人は父母に心労をかけてばかりで「父母のこころにたたらず」とその心中を記されています。
 親子の情愛の深さはどんな時代になっても変わらぬものと信じていたのは私だけでしょうか。ところが今の世の中ではどうでしょう。
 子が親を殺したり、親が子をあやめたりする報道を目にするにつけ、病んだ現代が必要としているのはお釈迦さまや日蓮聖人の教えであると痛感します。この尊い教えを弘め、安穏な世の中を築き上げるのが私たち日蓮宗の僧侶檀信徒の務めなのです。
(論説委員・星光喩)

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