2017年12月12日
新潟西 武見日恕上人の書簡発見
【新潟西】新潟県長岡市の真浄寺(武見潮裕住職)から、明治時代の中期にあたる十九世紀初期の史料が、八〇〇点以上発見された。かつて東京堀之内・妙法寺の住職であった武見日恕上人(一八五八~一九一七)のもとに来た書状等で、これまで明らかとはいえなかった明治期の宗務行政の組織、教育機関の整備、信者組織の構築、子弟の教育など、その内容は豊かで広範囲に及んでいる。他に類例のない史料として、現在、立正大学名誉教授・中尾堯文師と日蓮宗現代宗教研究所により調査と目録の整理が進められている。
大量な史料を伝える真浄寺は、武見日恕上人が故郷の長岡市・関原に、大正二年(一九一三)に両親追善のため開創した寺院。現住職の潮裕師は第5世で、開創一〇〇年を記念して寺宝の護持を発願した。日恕上人に宛てられた書状は、おおよその分類にしたがって巻子状で保管されており、他に未分類の日記や備忘録などかなりの量にのぼる。中尾師は、「日恕上人の名刹の住持としての活躍と当時の日蓮宗寺院をめぐる当時の困難な状況が、史料の文面からはっきりと浮かび上がる、日蓮宗の現在と深く関わる貴重な史料。宗史における近代の欠を埋める重要な研究成果が期待される」と語り、文書の帯びる意味を強調している。
明治十九年に妙法寺の住職となった武見日恕上人は、身延山久遠寺の復興に尽力するとともに、檀林運営に深くかかわって宗門子弟の教育に専心した。一方で東京小石川に「茗谷学園」を設け、僧と俗を分かたず好学の弟子を育てることにも力を注ぎ、「日蓮宗十万人講」を広めて信者を結集して、法華信仰の物心両面にわたる確立を期した。