2017年10月20日
魂への供養をどう説くか
最近、霊園墓地と称する施設が増え、週末ともなると見学を促す広告が新聞に挟まれたり、テレビのCMに流れる機会も増えた。それらは、永代供養をうたっているものもあれば、墓地分譲を宣伝するものもある。いずれも一般的な寺院の金額よりずっと格安であるようだ。
地方に出かけても驚くのは、人口に見合わないほど多くの葬儀社が点在していることだ。
同時に、これは大都会の寺に限るようだが境内墓地を拡張したり整備するなどして檀家の増加に備える寺も多い。これらは、近々団塊世代にお迎えが来るのを見越してのことのようだ。
ところが一方で、正反対の動きがこれは一般の方々にある。その最たるものが墓じまいだ。出入りの石材店主は、最近では墓を作る仕事より解体する仕事の方が多いと嘆いていた。
身近で墓じまいをした方々にその理由を尋ねると、口をそろえたように「子孫に負担をかけたくないから」とのことだった。寺に墓があることによる、主に経済的負担を苦にしているのだ。
こうした墓じまいに至る一連の動きに、檀信徒の方々の半数は共鳴しているのではないだろうか。これらはすべて価値観の変化から来ているのだと思う。70歳以下の方々は戦後の価値観の中で生まれ、過ごしておられる。その方々が抱く寺への期待は(あるとすればだが)、明治・大正・昭和初期生まれの方々のそれとは違うはずだ。残念ながら僧侶に対する尊敬の念も薄れてきている。僧職にあるというだけで信用していただいた時代はとっくに過ぎた。
小生が寄住する寺の門前に住んでおられた老人男性が無宗教のまま亡くなり、葬儀もせずに遺骨を駿河湾に散骨した。彼とは近所づきあいもしていたが、小学校長まで務めた立派な紳士であった。昨今の散骨や墓じまいのブームに乗って無宗教になったのではなく、かなり以前から決めていたという。熱心な日蓮宗信者だった奥さまが結婚以来日蓮宗への帰依を勧めていたが、最期まで応じなかった。
その方のご子息は先進的な研究で有名な大きな企業に勤めておられる。即ち、後継者が金銭的に不自由というわけではないにもかかわらず、子どもたちに負担をかけたくないというのが理由だった。
供養する立場の遺族ではなく、これから供養を受ける立場になる人が自らそれを拒否しているのである。ここに、墓じまい、寺離れの深い根を見つけることができるのではないだろうか。
おおよそ先祖供養は仏教本来のものではない。大乗仏教が中国に入った時に儒教の影響を受けて始まったものだ。とはいえ2千年近い歴史があれば、仏教の儀式として定着している。今さら、先祖供養を見直すことなど不可能だろうが、僧侶の側にはできることがあるような気がする。
愛知県以西では、遺骨の一部のみの埋葬で供養が済んでいることを考えれば、供養とは魂に対して行うものであることが理解できる。それを僧侶がまず確認することだ。少なくとも墓は故人を偲ぶ場所として存在すればいいわけで、負担になるほど立派なものである必要はない。
そのことを伝えるだけでも、遺族は安堵するだろう。それは葬儀や年忌法要についても同様で、あくまでも魂への供養を勧めることだ。
国内の貧困率が高くなっているという報道に接するたびに、少なくとも僧侶はその人たちの側に立つべきだと痛感している。寺の運営という舵取りをしながらも、社会や檀信徒に期待していただける寺、僧侶でありたいものだ。
(論説委員・伊藤佳通)