2017年5月11日
大阪和泉 北畠顕家 没後680年慰霊祭
【大阪和泉】宗務所(佐野一秀宗務所長)は5月11日、堺市石津にある「源顕家公(北畠顕家)・南部師行公殉忠遺跡供養塔」で佐野宗務所長を導師に宗務所役員が出仕し、源顕家公(北畠顕家さん)保存会(長谷川勲会長)の方々と共に供養を捧げた。
さかのぼること、朝廷が南北に分かれ日本中が戦乱の世となっていた南北朝時代。南朝軍の総大将北畠顕家は部下の南部師行を始めとする兵を率い、北朝軍足利尊氏の執事高師直が率いる軍勢と善戦し退けるほどの活躍ぶりを見せ、花将軍と称され才覚を発揮した。しかしその後の戦いが優位に進まず、延元3(1338)年の「堺浦の戦い」で北畠顕家と南部師行などの将兵が石津の地で亡くなった。その時の状況を哀れに感じた石津の村人がこの地に葬り慰霊を行った。
正徳3(1713)年には行家塚の石碑と、大正8(1919)年には「此付近北畠顕家奮戦地」と記した石碑が建てられた。さらに昭和12(1937)年に「源顕家公(北畠顕家)・南部師行公殉忠遺跡供養塔」と「供養碑」が建てられ現在の景観となっている。同年6月27日には大阪雲雷寺にて身延山第83世望月日謙猊下を導師に殉忠600年記念法要が営まれ、堺石津の地で戦死した将兵を偲んだ。「供養塔」の正面には望月日謙猊下のお題目、「供養碑」には現法主内野日総猊下の師匠南部日實上人書の碑文が記されている。当保存会はこのことを身延山に相談し、石津が大阪和泉管区であることから身延から連絡を受けた宗務所がこれから毎年法味を捧げる運びとなった。
また源顕家公(北畠顕家さん)保存会は毎年命日の5月22日に「北畠顕家ゆかりの地」にて慰霊祭を行い、地域の文化財の保存と普及活動に努めている。今年で没後680年の節目を迎え、法要後の挨拶で長谷川会長は「この歴史背景をもっと若い方々にも知ってもらえるような取り組みに励んでいきたい。今年は若い僧侶の方々が大勢参加されてとても嬉しく思う。本日は御供養賜りまして有難う御座いました。」と今後の抱負と感謝を述べた。