論説

2017年3月20日号

コケコッコー

子ども独りで食事をする「孤独食」。朝食を抜く「欠食」。家族が一緒に食卓についても個々人の食事内容がバラバラである「個別食」。毎食ともに同じメニューである「固定食」。これらの頭文字をとって食育では『コケコッコー』といい、成長過程にある子どもにとって情操教育、あるいは家庭環境的にも注意が必要な食卓の姿だとされる。
岩村暢子著『普通の家族がいちばん怖い~徹底調査!破壊する日本の食卓』(新潮社刊)は、正月やクリスマスなど家族イベントと呼ばれる日の食卓を長年にわたり調査研究した本である。
76枚の写真と720人の主婦たちの証言から浮きあがる家庭の姿が記されている。著者は、223世帯の食卓調査を通し子どもたちの目線で見た母親の言葉と行動の違和感を指摘し、子どもが「自らの立ち位置や判断基準も見失ってしまうような気がする」と危惧の念を記していた。実はこの書籍は今から10年前に出版された本である。
かつてのような大家族や隣近所との親密な人間関係が崩壊した現代社会。1つの家に居住していても家族1人ひとりが別々の部屋を持ち、声掛けするのもメールやラインで呼び合い会話のない「個族」や「孤族」と称される形態も決して珍しい家族の姿ではなく、いかに孤立化が進んでいるかを知る。
孤立によって起こる社会問題に家族内殺人や心中、親子間の悲惨な事件を挙げることができる。読売新聞の調査では、平成25年以降、介護殺人が全国で少なくとも179件発生し、189人が死亡。ほぼ1週間に1件のペースで事件が起こり、とりわけ70歳以上の夫婦間で起きたケースが4割を占めていると報じている。(平成28年12月5日付)
在宅介護の壮絶な現実については毎日新聞大阪社会部取材班による『介護殺人~追いつめられた家族の告白』(新潮社刊)が出版されている。事件の取材と介護家族アンケートから見える家族と支援の限界などが綴られている。他方、虐待による児童の死亡事件数は、平成25年で69人。前年度は90人。前々年度は99人(厚生労働省)である。しかし、日本小児科学会では、実数を3~5倍の約350人と推計しているという。
石井光太著『「鬼畜」の家~わが子を殺す親たち』(新潮社刊)は、ネグレクト(育児放棄)や暴力の末、子どもを手にかけた親を中心に見た家庭という密室で起こった事件を取り上げている。
前記の読売新聞では、戦後70年余りで進んだ核家族化や非婚化、都市化により、家族や地域の支え合いが崩れ、介護殺人だけでなく児童虐待や家庭内暴力につながっていると指摘し、殺人事件のうち親族間で起きた割合は52%で10年前より8ポイント上昇したと伝えている。
今日の社会はプライバシーという壁があり、各家庭に関与することは難しいが、痛ましい事件の一因が家族の孤立や絶望であると知るとき、行政の支援や制度を問うだけでは加害者をつくらず、被害者の生命を救うことはできない。
寺には今も信頼と習慣が残る。お経まわりで家に上がる事も可能であり、親子家族での寺参りを促す工夫もできる。こども食堂やおやつクラブ、フードバンクなどの活動を通し地域とのつながりの場をつくる事もできよう。
安穏なる社会づくり、人づくりは、生きとし生けるものの「笑顔づくり」である。
(論説委員・村井惇匡)

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2017年3月10日号

覚りに向けての歩み

キリスト教をはじめとする一神教と仏教との違いの第一は、「その宗教における究極の価値と人間との関係」であろう。一神教において究極的価値あるものは「神(創造主)」であり、仏教では「仏陀・覚り(涅槃、諸法の実相)」である。一神教における神は唯一の創造者として万物の上に君臨しており、「人間は絶対に神にはなれない」という点において、両者の関係は永遠に断絶している。ところが仏教(特に大乗仏教)の場合、「人間は覚りを得ることで仏陀になれる」という立場に立っており、一神教との差違が際立っている。仏教が「仏陀の教え」であると同時に「仏陀になるための教え」と言われる所以もここにある。
一神教と仏教との違いの第二としては、「聖典と真理との関係」が挙げられる。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(『新約聖書』「ヨハネによる福音書」一.一)からも分かるように、一神教における聖典は「神のことば」であるのみならず、「神(=真理)」と同一視され絶対視されている。ところが仏教における「仏陀のことば」(仏典、経典)は、真理とは同一視されないのである。その証左の一つとして、釈尊が今生で敢えて成道を示現された後に、〝自分の証得した真理を説いても理解されない〟との理由で、数週間に渡って沈黙し続けられたことが挙げられる。成仏・涅槃という境地は、独り釈尊のみが証得された内的体験である。その当時、同じ体験をして仏となっていた者がいなかったため、自らの体験をことばに出して他者に伝えることが、釈尊にはどうしてもできなかったのである。仏の体験した境地(諸法の実相)は、同じ体験をした仏同士でしか共有できない。このことを『法華経』は、「唯仏与仏乃能究尽諸法実相(ただ仏同士のみが、諸法の実相を究め尽くしている)」と教えている。
もし釈尊がそのまま沈黙を守り続けていたとしたら、この世に「仏教」という宗教が誕生することはなかったであろう。ところが釈尊は、数週間にわたる沈黙と葛藤の後、遂に衆生に対して説法することを決意された。そして鹿野苑における、五比丘に対する初めての説法「初転法輪」へと連なっていくのである。ただし、いかに釈尊が説法を決意されたとはいえ、釈尊は依然として「自らが証得した真理、諸法の実相」を、衆生に対してことばで説明する術は持たれていなかった。では、真理を伝える術を持たれていないにも拘わらず、なぜ釈尊は説法を決意されたのだろうか。それは、「真理を伝える」ということを断念し、「人々を真理へと導く手段を講じよう」と思いを新たにされたからに他ならない。だからこそ、初転法輪で真っ先に説かれたのが、覚りに向けての歩みである中道(八正道)だったのである。
初転法輪以降、入滅に到るまで、釈尊は多くの教えをお説きになった。それらが「仏陀のことば」として、後代に経典として編み上げられていったのである。ときに「八万四千の法門」とも呼ばれる膨大な経典群は、古来「諸経の王」と評される『法華経』をはじめとして、その全てが私たちを覚り・諸法の実相へと導くために説かれたものであって、仏教における真理そのものではない。私たちは経典の教えに導かれ、自らが真理へと歩んでいくのである。しかも、諸経の王たる『法華経』のエッセンスは、お題目の七文字に具わっているとお祖師さまはお教え下さった。私たちはお題目をお唱えするときに、間違いなく覚りへと歩ませていただいているのである。(論説委員・鈴木隆泰)

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2017年3月1日号

仏弟子とはどうあるべきか

身延山奥之院の境内に元政上人埋髪塚があります。かつて京都・深草瑞光寺開山元政上人(1623~68)が、病身を顧みず、年老いた母を輿に乗せ身延山に詣で、父親の遺骨と自分の髪を埋葬した塚です。生涯父母への孝養を怠らなかった元政上人。日蓮聖人の御真骨を拝し
「何ゆえに くだけしほねの
なごりぞと おもえば
袖に玉とちりける」
と感涙をこぼした元政上人。今年、第350遠忌の正当を迎えました。
元政上人は出家以来、一部の戒を軽視する風潮を憂い、「仏弟子とはどうあるべきか」を求め持戒堅固に徹しました。教学に通じ、殊に『日本書紀』や漢詩などの文学に天凛を発揮し、石川丈山や陳元贇など当代一流の文化人と深く交わりました。
自坊の京都市常照寺(鷹峰檀林旧跡)には『元政上人二七歳筆一念三千圖之記』があります。慶安2年(1649)元政上人剃髪の翌年に書かれたもので、一念三千について、十如是之事・五●之事・●法蓮華経之事・大覚世尊之事・諸仏出世之事の五項から論述しています。端正な楷書の筆跡から敬虔な信仰の姿が伝わります。文中「末法に本門五字の妙法を以て流通し群類を引導したもう。所謂、意に妙法五字を念じ口に五字を唱え行住坐臥此を怠らず…」と記し、本門の題目は専ら身口意三業で受持すべきと説いています。
元政上人は洛北鷹峰を訪れ『遊鷹峯記』『重遊鷹峯記』などの紀行文を著しました。寛文3年(1663)夏の『常照講寺記』には「今茲夏孟余 偶北峰に来たって常照寺の密邇に僑す。毎に講論を聞くの外、日に読誦の音あり。余人に謂ひて曰く、凡そ談林の風、講習討論、以て之を勤と為して、誦経を兼ねざるを業となす。此の山並び行うことは独り何ぞや。曰く、講主自ら読誦を勤む。其の勤めざる者をば以て吾が徒に非ずとなす。…利養を貪らず。劬労を憚らず、伝燈を得んと欲せば、多く山寺にあり。読経法事並に物の軌となる。此の如き仏恩を報ずと名づくべし…」とあります。
(常照寺を訪ねると講義以外に読経が聞こえた。檀林では講論中心と聞くが、鷹峰檀林では化主が読誦に励み、読誦せざる者は弟子に非ずという。…指導者たるもの利益を貪らず、伝燈のためには山に籠り専心読経すべし。これ仏への報恩なり。…意訳)
また、元政上人は門下のために『艸山要路』を著し「信以って之を立て、疑以って之を定め、戒以って之を制し、衣食以って之を養い、住処以って之を保ち、知識以って之を調え、誦以って之を鼓し、静以って之を正し、学以って之を明かし、指帰以って之を致す」(文中「之」は仏道の意)と仏道の軌範を示しました。瑞光寺第2世慧明院日燈上人(『艸山清規』著者)作と伝わる「寒水白粥・凡骨将死・理懺事悔・聖胎自生」(寒水白粥凡骨将に死なんとす。理懺事悔、聖胎自から生ず)の句に、草山一門の修行精神が伝わります。
生涯、仏弟子としてのあり方を探求し、常に孝養心を忘れず、教養を具えた求道者元政上人。世寿46歳というあまりに短い生涯でした。元政上人一門が伝えた修行の綱領は後に「法華律」と呼称されましたが、それは戒律のための戒律ではなく、あくまで「仏弟子とはどうあるべきか」を純粋に求めた行儀作法であり、私たち日蓮門下にとって貴重な道標です。
(論説委員・奥田正叡)

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