2016年11月20日
孤立しない社会を作るために
私たちの先人は子育ての諺を遺している。
「赤子の時には『肌』を離すな、幼児の時には『手』を離すな、子供の時には『目』を離すな、少年からは『心』を離すな」
また江戸時代には、「3つ心、6つ躾、9つ言葉、12文、15理で末決まる」という稚児の成長に応じた教育の方法があった。前者は『4つの離すな』と呼ばれ、親子の繋がりを説き、後者は家から隣近所、寺子屋、地域社会がともに子どもを鍛え育む「鍛育」の姿が示されている。
はたして、現代日本では、先人の遺した知恵で子育てができる環境といえるであろうか。
あらためて子どもたちを取り巻く環境を見ると、親子間の触れ合いが少なく、家庭や学校で居場所を見失った子どもたちは、スマートフォンのLINEなどを通じて匿名・通称で同じ境遇、同じ世代の仲間とつながり、互いに依存するコミュニティーを作り属する。しかしそこは地域の中から孤立した集団でもある。とても閉鎖的で、電話やメールを無視したという「ささいな裏切り」で対立し、排除を行う危険なコミュニティーでもある。彼らの親もまた、地域社会の中で繋がりを持てず、孤立をしているという。
8月23日、埼玉県東松山市の都幾川の河川敷で井上翼さん(16歳)が遺体で発見された。中学生3人を含む14~17歳の少年5人が、井上さんを集団で暴行し死に至らしめた。
地元紙『埼玉新聞』(9月23日付)では、「大人との関係が希薄化する中で、非行に走る少年たち。家庭、学校、地域、社会はどう向き合えばよいのか」と問題提起し、各界からの指摘や提言を載せていた。
私たちは宗祖を通し「アジャセ王の物語」から歩むべきまことの道を知ることができる。
アジャセ王は己の欲望満足のため父を殺害した。彼の身と心は蝕まれ、深い苦悩の底にあった。しかし、彼は救われた。
母イダイケは、孤独と絶望の中にある我が子を見捨てることなく看病し続け、医師ギバは自らの行いを懺悔し、罪を恥じる慚愧の念を起こした彼をして、ブッダのみ教えを聞くことを勧めた。ブッダに会うことをためらうアジャセに「釈尊のもとに行くがよい」と天から声をかけたのは、彼に殺された亡父ビンビサーラ王であった。
釈尊は、慈愛に満ちた声で彼の名を呼び、「あなたの犯した罪の原因は、その縁をつくった私にもある。あなたの罪は私の罪でもある」とお告げになった。
この釈尊の大慈悲の姿と心に接し、アジャセは、あらゆる人々の悪い心を除くためなら、私は地獄に堕ちても、どんな苦悩を受けることになっても後悔しない、という菩提の心を起こした(『さとりの知恵を読む―仏教聖典副読本―』参照)。
彼は気づいたのであろう。己は独り苦悩していたのではなく、縁ある人は皆、絶えることのない情愛をそそぎ、真摯に向き合い、ありのままの自分を受け入れともに苦しんでいたことを。
日蓮聖人は大曼荼羅ご本尊に「阿闍世大王」と揮毫されている。み仏の慈光に照らされ他者の幸せを願い、他の人のために生きたいという誓願に生きる仏弟子として生まれ変わったアジャセこそ私たち1人ひとりの姿であるのかもしれない。
孤立化が進む現代社会にあって、いかなる子も親も孤立をさせないコミュニティーづくりができないだろうか。「いのちに合掌」を掲げる寺院が、地域性を活かした寺こや活動を通し人々と結縁する時、多くの仏弟子アジャセが誕生できるのではあるまいか。
(論説委員・村井惇匡)