2016年11月1日
綱脇龍妙上人に学ぶ
古来、業病、遺伝病と烙印されてきたハンセン病。1873年にライ菌が発見され伝染病と知られても差別や偏見を強いられてきた明治時代、人間礼拝の精神で患者の救済活動に生涯を捧げた日蓮宗僧侶がいました。
綱脇龍妙上人(1876~1970)が国立療養所に先駆け日本人初の民間救療施設「身延深敬病院」(後の深敬園)を設立したのは明治39年(1906)のことでした。
綱脇師は30歳の時、布教家を志し初参拝した身延山で偶然ハンセン病患者の少年と出会いました。少年は「父が病気で亡くなると姉が温泉場で働きながら、母の入院費と自分の旅費を用意してくれた」と語り「姉に言われお祖師さまに助けてもらえると信じて山形から辿り着きました。しかし住む所は河原しかなく、食べ物もろくに売ってくれません。子どもたちからは嫌われ石を投げられるし…」と泣き叫ぶと地面に大の字になり手足をブルブル震わせました。あまりに衝撃的な姿でした。当時身延山や各本山には多くのハンセン病患者が集まっていました。その夜、綱脇師は御廟所で唱題中に「何とかしてやれや、何とかしてやれや」という日蓮聖人の声を聞きました。その後数日間、その声を聞き続けた綱脇師は、ついにハンセン病患者の救済を決意したのです。
資金のない綱脇師は1日1厘3年で1円8銭を寄付してもらう「十万一厘講」を考案し、浄財勧募のため全国寺院を回りました。趣意書には「空しく異郷の土と化るという悲惨は到底語るに忍びず…」と患者たちの身の上を嘆き、「眼の前で苦しむ人達の救済こそ仏教の慈悲の実践」と訴えました。当時ハンセン病に対する偏見は根強く「ゆすり、たかり」と激しい罵倒を度々受けました。しかし綱脇師の決意は堅く徐々に支援の輪が広がっていきました。身延山久遠寺豊永日良法主から土地使用と建築資材を頂きついに仮病棟一棟を建てる事ができました。法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる「我深敬汝等ー我深く汝等を敬う」(誰にも具わる仏性をすべての人に見て、合掌礼拝した常不軽菩薩の言葉)から「身延深敬病院」と名づけ、流浪する13人の患者を収容しました。決意から3ヵ月目のことでした。
深敬園の特徴は「信仰を拠り所とした家族経営」でした。法事部担当の患者が導師となって朝夕5時に勤行を行い、綱脇師は盂蘭盆会・彼岸会・御会式など導師を勤めました。園内の建物には天鼓殿・法喜舎・善悦舎など寺院同様の呼称でした。
10年前、綱脇師の長女美智さんと元入園者(多摩全生園移送)に取材する機会を得ました。印象的だったのは綱脇師の密葬でした。遺言通り入園者により天鼓殿で密葬され、遺体は園内の火葬場で荼毘に付されました。終始入園者の読経が響き、一晩中皆で綱脇師を偲びました。まさに入園者を愛し、入園者に愛された綱脇師の姿でした。
綱脇師は「大変化の時代には不軽色読人間礼拝の日蓮聖人が重要な意義を持つ。人間礼拝の徹底が今後の宗教としての価値を決める。ただ形式的に合掌して人を拝むなどは問題外である」(自伝『いのり』法華倶楽部発行)と綴っています。開園から廃園される平成4年までの87年間に1436人のハンセン病患者が入園した深敬園。今年創立110年、綱脇師47回忌の年を迎えました。深敬院日●上人(綱脇龍妙師)の遺徳を偲び、宗門運動が掲げる「但行礼拝」・「いのちに合掌」の意義を深めたいと思います。
(論説委員・奥田正叡)