2016年11月1日
先祖供養をどう理解したらいいのでしょうか?
「先祖供養をどう理解したらいいのでしょうか?」教職についている檀徒からの質問だ。お寺参りに熱心だったお母さんの供養の日だった。「ここはきっちり理詰めで説明して納得してもらわないと後の供養が続かないだろうな」と私は考えた。現代社会は、生きている人間に都合良く合理的であれば良いという方向に流れ、亡くなった人との対話が次第に欠落してくるからだ▼彼は田舎に住み、代を重ねた旧家である。「家族が何代にもわたって同じ家に住む意味は大きいですよ。同じ空間に親がいて子どもがいて、親が死んだ後、子どもが同じ道具を使い四季折々の行事をする。気がついたら自分も親と同じ生き方をしている。死んでしまった人の日常を行っていくことが供養になると私は思います。供養ということは単純に言えばその人を記憶すること。その人が生きていたらするであろう振舞を繰り返すことが最大の供養になると信じます」。一応私の説得は功を奏した▼しかしこの論法が、後継者のいない家や、共同体が持っていた宗教性がなくなった都市部で成り立たないのは承知している。昨日より今日、今日より明日と、新たな刺激を求めて一歩でも前へという時代・環境が、昨日と同じ今日を生きるのが幸せという日常生活への還元力を越えていくからだ▼田舎に住む私は、街に住む檀家や跡取りのいない人に先祖供養をどう説こうかと悩んでいる。(雅)