2016年10月20日
無医村に医師が赴任してきたところ、医師がいる
無医村に医師が赴任してきたところ、医師がいるというだけで病気になる人が減ったという▼なるほど我が身に当てはめてみても、大いにうなずけることだ。病気になって医者にかかるというのは、結構ハードルが高いものだ。熱っぽい身体に弾みを付けて出掛けるのも億劫だが、重篤な病名でも宣告されるかと思うと、もはや行く気がしなくなる▼ところがいざ医師に「どうしました」と声をかけられると、それだけで元気が出てくる。診察の結果「特に問題はないようですね。薬をのんで様子を見て下さい」などと言われると、半分がところ治ったような安堵感が湧いてくる▼かくも医師の存在は大きいものだが、先日、ある病院で入院患者の生命が奪われるという事件が報道された。治癒の場であるべき所が不安と恐怖の現場と化してしまったのだ。この先、私たちは一体何を信じればよいのだろうか▼法華経寿量品には父として慕われる名医が登場する。その父が亡くなったとの報に、子供たちは悲嘆に暮れる。この医師が仏であり子どもたちが私たち衆生であると説く。父を失った嘆きは大きいが、その残して下さった薬を服すれば病が治るように、仏の説き残して下さった法華経を信じ行ずれば私たちは救われるのだと教示されている▼信じるものを失った現代の私たちにとって、この法華経をおいて他に信じ服すべき良薬はない。(直)