2016年10月1日
不退転のこころでもって
私たちは人生の歩みの中で、しばしば困難な出来事に遭遇し、容易に前へ進むことができない場面に直面することがあります。そのとき、私たちは、前進することを放棄したり、後退して別の方策を講ずるとか、しばらくその状況を静観する、などの対応をはかるように思われます。
このように、凡人である私たちは、種々の課題を背負い、それぞれの人生を生きねばならないのですが、私たちに法華経の真実を示され、お題目による宗教的救済を、身命をかけて説きつづけられた日蓮聖人(1222―82)の受けられた種々の法難は、いかに困難な出来事であったかが拝察されるのです。
日蓮聖人は、32歳の建長5年(1253)4月28日の「立教開宗」後、周囲からの抑圧によって、故郷の清澄寺を下山されます。そして、正嘉元年(1257)8月23日午後9時頃、鎌倉を中心として襲った大地震によって、多くの人たちが被害を受け、さらに災難が打ちつづくことになります。
これらの惨状を目の当たりにされた聖人は、災難の原因をたずね、国土の安穏を祈るために、釈尊の一切経にたずね、『立正安国論』一巻を完成され、前の執権北条時頼に進覧されるのです。しかし、翌年5月12日、聖人を伊豆へ流すことになります。聖人40歳のときです。
伊豆流罪赦免後も、聖人の法華経弘通の態度は変わることなく、却って幕府の政治のあり方や、幕府の権力を楯に、真言律宗を広める良観房忍性(1217―1303)の信仰態度を厳しく批判されます。ついに、幕府は、50歳の聖人を、佐渡へ遠流に処すのです。
しかし、佐渡という厳しい境遇にありながらも、聖人の人格に帰依し、法華経の教えに生命をささげた信徒が存しました。国府の入道夫妻と阿仏房夫妻です。
国府の尼に宛てられた手紙には、つぎのようにあります。
「尼御前ならびに入道殿のお二人は、私が流人として佐渡にあったころ、他者の目を気づかって、こっそりと夜中に私のもとへ食物を届けてくださり、またあるときは、私を見張っている幕府の役人から、流人を支援していることのとがめがあっても、それを恐れることなく、堂々と役人に抵抗して、私の身代わりになろうとしてくださったお方たちです」(現代語訳・昭和定本1063~4㌻)
また、阿仏房の妻千日尼への手紙には、つぎのように記されています。
「地頭や念仏者らが、私の居住している庵室に立ちはだかり、私をたずねて来る人々をさまたげ、妨害したのです。そのような中、夫の阿仏房に食物を入れる櫃を背負わせ、夜中にたびたびご訪問くださったことは、いつの世までも忘れることはできません。(中略)
流人である私にご奉仕されることによって、居住の場所を追われ、あるいは罰金が課せられ、さらには、住居までも取りあげられるという罪科に遇われながらも、ついに信仰を貫き通され、退転されることはありませんでした」(現代語訳・昭和定本1545㌻)
このように、国府の入道夫妻、阿仏房夫妻は、聖人の厳しい境遇の中、みずから身命をささげて、法華経信仰を貫徹したことが知られるのです。
いまを生きる私たちは、過去の出来事をもっても想定できない厳しい事柄に出会うことでしょう。けれども、日蓮聖人の歩まれた道、そして、その教えに共鳴した人たちの生き方を学ぶとき、けっして退転してはならないと思うのです。
(論説委員・北川前肇)