論説

2016年9月20日号

鎮痛薬と臨終正念

 近年、がんの痛みのような強い痛みがある人に、医療用麻薬が処方されることがある。その場合、鎮痛効果によって痛みが抑えられると同時に、時には眠気が生じたり、傾眠傾向になり意識レベルが低下する場合もある。一方、信仰上は、人生の終末において心が正しくあること、すなわち臨終正念が理想とされる。痛みを取るための薬剤によってもたらされる傾眠と、臨終正念の相互関係についてどのように考えるべきであろうか。
 これは現代的課題であり、経典やご遺文に直接的な回答を求めることはできないが、飲酒に関する仏教的な考え方に一つのヒントがあるように思う。
 「お酒に心を乱されてはならない」(不飲酒戒)とは、仏教徒の心すべき戒の一つであるが、その理由は、お酒を飲むことによって心が放逸になり、慎むべきことも乱れがちになり、精励すべきことも怠りがちになり、いざ臨終に臨んで心乱れやすくなるからであるといわれる。
「仏が阿難に仰せられた。臨終の一念は、強くて猛烈であることは火のようでもあり、毒のようでもある。ささいなことではあっても、大きな影響を及ぼす。わずかにおこる一念も、強くて猛烈であるから、その結果の報いは速やかに受けることになる」(『大智度論』)と説かれているように、臨終に際してお酒の影響で心が乱れていたのでは、成仏が叶えられないことになる。
 病気に対する酒の使用について、伝日遠の『千代見草』に次のような一節がある。
「身体の内に熱のある病人は、酒の飲めない人も酒を求めるものである。そのような時には、少しずつ用いるべきである。身体の内の熱にお酒の熱が加わり、自然に解熱するという効果が出る場合がある。あえて好むようであれば用いてもよい。分別功徳論の中に『祇園精舎に六年間患っている比丘がいた。優波梨がその比丘に、あなたの病に効く薬があれば、私が求めて与えようと尋ねた。その比丘は、お酒さえ飲めば回復するだろうと答えた。優波梨は、釈尊にお尋ねして差し支えなければたやすいことであると言って、釈尊に事情を話したところ、釈尊は、私の禁制する飲酒戒とは病人に求めるものではない、薬として与えるならばよろしいと仰せられた。そこで優波梨は酒を求めて比丘に飲ませたところ、病がやがて回復した』とあるように、薬になる場合は与えてもよいが、薬にならない酒は与えてはならない」と。
 これはお酒についての話であるが、痛みを取り除くための鎮痛薬の場合にも同じように考えることができるのではないだろうか。つまり、お酒を飲みすぎて心が乱れることは仏道修行にとって障害になるが、同じお酒であっても病気の治療に有効な場合は用いてもよいのと同じように、鎮痛薬についても、心が混乱するような強い痛みを取り除くために使用する場合、副作用に細心の注意を払って用いることは、仏道修行の障害に結びつかないと考えることができるのではなかろうか。
 近年開発されたオピオイド鎮痛薬は医療用麻薬と呼ばれるが、「麻薬」と言っても、覚せい剤や大麻などのような違法な薬物ではなく、がんの痛みのような強い痛みがある人が使用した場合には中毒にならないことが証明されている。また、医療用麻薬は、痛みが弱くなれば徐々に量を減らして、最終的に服薬を終了することも可能である。「一度使い出したら決して止められない薬」ではない。
 耐え難い痛みを取り除く鎮痛薬の使用は、臨終正念に反しないと考えたい。
(論説委員・柴田 寛彦)

illust-ronsetsu

2016年9月10日号

長寿を価値あるものに

 長寿国日本といわれています。WHO発行の「世界保健統計」によると、日本の女性の平均寿命は87歳で世界一です。男性の場合は80歳でこれは世界8位です。いずれにしても長寿国には違いありません。人生わずか50年といわれていたことから比べれば30年以上も長生きする国になったのです。
 訃報広告などに、故人の死亡年齢が書かれていますが、多くは80歳以上、中には100歳を超えている人もいます。80歳90歳がごく当たり前の生涯年齢に思えてきて、70歳で故人となられると、早く逝かれたようにさえ思えてくるものです。寿命というものは人それぞれに違います。大事なことは、いかに人間としての誇りをもって生きたか、人生の価値を見極めることではないでしょうか。命はわずかでも貴重なものであり大切なものです。
 日蓮聖人は、人の寿命は吐く息と吸う息の間であると断じられました。『妙法尼御前御返事』に「人の寿命は無常なり 出る息は入る息をまつことなく 風の前の露なおたとえにあらず…」と申されています。寿命は風の前の露のごとくはかないものであり、吐く息と吸う息の間という瞬間のものであると示されたお言葉です。はかないだけに貴重な命であるということでもあります。この瞬間が寿命であり再び帰ってこない貴重な瞬間でもあります。80年90年の寿命を頂いたのは、瞬間瞬間の命がつながった結果であるともいえましょう。そしてこの寿命は何年というように誰にも保証されているものはありません。
「賢きもはかなきも 老いたるも若きも 定めなき習いなり」と、いかなる人もこの理からのがれることはできないのです。だからこそ日蓮聖人は「先ず臨終のことを習うて後に他事を習うべし」と諭されたのです。臨終のことを習うというのは、いつ何時、寿命の終わりがきても決して悔いがないという感慨をもって迎える「覚悟」と「安心」のことです。そのためには、何年生きようが、毎日毎日が再び訪れない貴重な時間であるという心で過ごすことがとても大切なことであります。臨終をまぢかにして慌てないようにしたいものです。
 人身は受け難いものであることを、日蓮聖人は譬えをひかれ、大海の底に針を立て、大風が吹いている最中、天より糸を下して、針の穴にこの糸を通すという不思議はあっても、人間に生を受けることはそれよりも有り難いことである(『法華大綱抄』)と述べられています。このように貴重な人身を受け、しかも長寿をいただいたからには、更に「如来の聖経に遇い奉り、現世安穏後生善処の妙法を持つ」ことに精進することが何より大切なことであると教えています。み仏の正しい教えを持ち、生死の絆を離れるために精進することが、この世に寿命をいただいた目的であると悟らねばなりません。これが「まず臨終のことを習うて」という意味でありましょう。
 長寿をいただいたことを有り難く思い、み仏の教えに耳を傾けて悟りの道を求めることこそ、消えることのない今生の思い出となるのではないでしょうか。
 彼岸とは悟りの世界であります。秋の彼岸会を迎えわが命を見つめ直し、み仏の教えに耳を傾け、彼岸への道を歩めば、長寿も一層価値あるものとなるのだと思います。
(論説委員・石川浩徳)

illust-ronsetsu

2016年9月1日号

「ポケモン GO」を「ポケモン 業(ごう)」と考える

 夏休み前に当幼稚園では、「おてがみ」として園長の思いをこれから迎える夏休みの過ごし方という内容で記す。母親の就業が増え続けるこの時代に、今後、はたして子どもたちの「夏休み」という言葉が存在していくかどうかという問いはさておき、日頃できない長期の休暇中に、子どもの気持ちや興味、関心に寄り添い夏という季節を感じながら、親子で経験を共有してほしいというメッセージである。
 少し前までは、虫かごと網を持って公園の木々を見上げ昆虫を探す親子の姿を目にすることがたくさんあったと記憶している。足音を忍ばせ、虫をのぞき込む親子の後姿を見ながら、私もワクワクしたり、嬉しかったり心が揺れ動くのを自覚していた。しかし、今年の夏はいよいよ「ポケモンGO」の日本配信に伴い、タブレットやスマートフォンを持って公園や観光地に外出し、ゲームを楽しむ親子の姿に遭遇することになるとは。「ポケモンGO」とは、世界的に人気なゲーム「ポケットモンスター」をもとに従来のゲームと異なり、拡張現実の機能を使って屋外で楽しむゲームで、GPS機能によって今、目の前にある風景にポケモンが出現し、様々なポケモンを集めるだけでなく、対戦したりできるという内容に、世代を問わず皆夢中になっているゲームソフトである。すでにメディアで取り上げられている衝突事故や、迷惑行為など、注意喚起が促されている。
 以前『田尻智 ポケモンを創った男』を読んだ。田尻氏は、幼少期に昆虫採集に夢中な少年で、「虫博士」と呼ばれるくらいに没頭したことが記されている。東京都の郊外に育った彼の環境は、まだ林や畑があり、自然の不思議や自然への興味が、当時少年であった彼の欲求を十分に満たしてくれる時代であったようだ。しかし、都市化は次第に郊外へも広がり、当時の環境とは一変したとある。古今問わず虫を収集したいという欲求は、当園の子どもたちの姿を見ても、男児に多く見られる傾向であると思う。彼もまた幼少期のそんな思いを持ちながら、ポケモンという様々なモンスターを収集していくゲームを創って行ったのであろうか。そう考えると、子ども時代の経験や興味は、積み重なって創造性を育む大切な基盤であるということも言える。
 しかし、これ一つをとっても明らかに違うことは、自然の中で出会った昆虫の特徴や種類の多さに気づくだけでなく、自然の素晴らしさと同時に、自然の摂理を知り、残酷さに気づき、はかない小さな命に触れる体験ができるのが、実体験との違いである。この違いが非常に大きく、非常に大切な論点となるのである。
仏教では、業(ごう)を「なすこと」「行為」とし、そのなされる行為によって身、口、意に分類される。行為者の表に表されるものと、内面に潜んでいるものの目に見えない力は、善行と悪行として現れると説く。因果応報の中で、来世へと継続して働く力を業力という。ポケモンGOをポケモン業と考えてみると、大人は、子どもたちへ繋ぐ来世に向けて実体験からの学びを奪うことによって、バーチャルの快楽に溺れさせた心と身体、コミュニケーション能力はどうなっていくのか? 親子を軸とした家族の命で繋がれた愛着はどうなっていくのか? 今や人類史になかった「人体実験」を行ってはいないであろうか。善業と悪業のもとに人間性が問われている。
(論説委員・早﨑淳晃)

illust-ronsetsu

side-niceshot-ttl

写真 2023-01-13 9 02 09

新年のご挨拶。

過去の写真を見る

全国の通信記事

  • 北海道教区
  • 東北教区
  • 北陸教区
  • 北関東教区
  • 北関東教区
  • 千葉教区
  • 京浜教区
  • 山静教区
  • 中部教区
  • 近畿教区
  • 中四国教区
  • 九州教区

ご覧になりたい
教区をクリック
してください

side-report-area01 side-report-area02 side-report-area03 side-report-area04 side-report-area05 side-report-area06 side-report-area07 side-report-area08 side-report-area09 side-report-area10 side-report-area11_off side-report-area12
ひとくち説法
論説
鬼面仏心
購読案内

信行品揃ってます!

日蓮宗新聞社の
ウェブショップ

ウェブショップ
">天野喜孝作 法華経画 グッズショップ
">取扱品目録
日蓮宗のお店のご案内
">電子版日蓮宗新聞試読のご登録
">電子版日蓮宗新聞のご登録
日蓮宗新聞・教誌「正法」電子書籍 試読・購入はこちら

書籍の取り扱い

前へ 次へ
  • 名句で読む「立正安国論」

    中尾堯著
    日蓮宗新聞社
    定価 1,365円

  • 日蓮聖人―その生涯と教え―

    日蓮宗新聞社編
    日蓮宗新聞社
    定価 826円+税

書評
正法
side-bnr07
side-bnr07