論説

2016年7月20日号

寺こや活動は人間関係構築の学びの場

 「先生、この子 トイレの水を流さないんです。注意して下さい!」
 小寺で開催している夏休みこども道場での出来事である。
 使用後に洗浄しなかった子に理由を尋ねると「なんで流れないの?」と真顔で尋ね返してきた。実はこの子の自宅は全自動トイレであった。
 また、2本撥での太鼓指導を85歳の女性信者の方にお願いしたところ、休憩時間に小学校低学年の子どもが、「おばあちゃんの顔は、どうしてそんなにシワシワなの?」と聴いていた。女児の家はお年寄りがいないご家庭であった。
 私たちは物事の判断や行動基準を自己の経験値によることが多い。こども道場では、毎年、新鮮な驚きに出会える。
 今日、各教団宗派では、学校の夏期休暇を活用し、修養道場・サマースクール・こども道場と呼ばれる「寺こや」活動を活発に開催している。日蓮宗だけでも毎年、100ヵ所を超える寺こやが実施されている。
 日蓮聖人降誕八〇〇年慶讃事業においても、青少幼年の健全育成に向けた活動の促進が計画されている。
 子どもたちを対象とする寺こやは、学校教育とは異なる価値観、すなわち「仏教」に根差した徳育と修行体験、食事や礼儀作法などの躾に保護者の期待が大きい。
 開催にあたっては、ケガや事故などの危険に対する安全対策をはじめ、健康や衛生管理、傷害保険への加入等の配慮だけでなく、近年社会的に認知されてきた発達障害を持つ子どもたちへの理解と対応も求められている。
 経済的基盤や対応人員を考えると一寺院だけで主催するには企画内容に限界がある。
 日蓮宗スカウト連絡協議会(石井隆康会長)では、寺こや活動に対しスタッフ派遣、プログラム立案などを、宗門所属のボーイスカウト・ガールスカウトの指導者陣が相談に応じてくれる。またテント・炊飯具・寝袋・工具等備品の貸出や設営に協力を惜しまない。大いに活用し、寺こや活動を盛り上げて頂きたい。
 眼を社会に転じると、少子高齢化の時代といわれる現代。子どもの数は少ないが、能力・体力ともに充分な年齢層が厚い現実にあって、この人的資源を活かすことはできないだろうか。
 地域の寺院という地縁と信頼、さらには檀信徒と親族単位で交流をする寺院であるからこそ隠れた人材を見出すことができるのではあるまいか。
 例えば、寺こや活動の運営スタッフに栄養士や保健師等の有資格者、うどんの手打ち名人、農業や工芸従事者等が加わったり、アドバイスを受けたりすることで充実した内容につながる。パソコンが堪能な人に、参加者や保護者の目線でポスター・チラシの作成をしてもらえば斬新なデザインとなろう。寺こやの応援団づくりを通し、新たな人と人とのつながりが始まる。
 現代社会に起こるさまざまな事件の要因の一つに人間関係の希薄化が指摘される。
 寺こや活動は、異なる世代の交流が可能な「人間関係構築の学びの場」である。準備・実施・反省・改善にさまざまな人がかかわり合うことは、あたかもお題目の大光明に仏菩薩のみならず天地の神々、鬼神異類そして人間までものすべての存在が、照らされ輝く大曼荼羅ご本尊の尊形に通ずる。
 寺こやを通じ、主催者・参加者・保護者・協力者みなともに安穏なる社会づくり、人づくりに取り組む季(とき)を迎えた。そこで得る経験値は計ることができないほど大きい。
(論説委員・村井惇匡)

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2016年7月10日号

蓮華のようなお祖師さま

 古来、われらがお祖師さまに対しては毀誉褒貶が激しい。殊に仏教学者の中には、お祖師さまが1260年、『立正安国論』を時の権力者(前執権である北条時頼)に提出して、彼らの信仰を改めさせようとしたことが気に入らない、という方が少なくないようである。彼らの言い分としては、「僧侶は俗世を離れて覚りを目指すのが本分である。事実、釈尊もマガダ国王の〝将軍として召し抱えよう。私の右腕となってくれ〟という申し出を断っているではないか。僧侶でありながら政治に口出しするなど、全くもって仏意に背く行為である」というものが大勢を占めているようである。しかし、このような批判は仏教という宗教に対する誤解によるものであることを、この際はっきりさせておきたいと思う。
 なるほど、インドにおける出家者の本分が「俗世を離れて覚りを目指すこと」であること自体には、筆者にも異論はない。しかしそれは、インド社会が「生まれによる貴賤差別」であるカーストに基づく社会だからである。最古層の仏典『経集(スッタニパータ)』に見られる「生まれを問わず、行いを問え」という教誡からも知られるように、仏教は「血統主義、家柄主義」ではなく、徹底的に「行為主義」に立脚する宗教である。「生まれによって貴賤上下の別が定まるのではない」という仏教の行為主義は、インド社会では完全に「非常識」であった。そのためインドの出家者は、「生まれを問わず、行いを問え」という行為主義を徹底するためには、どうしても「俗世(インド社会=カースト社会)を離れる」必要があったのである。さらにこのことからは、インドにおける出家が、カースト社会を離れることを意味していることも確認される。
 ところが日本社会はカースト社会ではない。したがって「出家」の在り方もインドとは異なって構わないことになる。行為主義に立脚できるならば、俗世(日本社会)に留まったままで、覚りを目指すことも可能となる。仏教徒の本分は、まさしくこの「覚りを目指す」ことである。インドはカースト社会であったため、「俗世を離れて覚りを目指すこと」がインド仏教徒の本分であったに過ぎないのである。
 もちろん、日本では出家者がその身を俗世に置いたままであることが可能であったとしても、その精神・価値観まで俗化してしまっては本末転倒である。実際、出家と称しながら家柄主義に立脚し、世俗の権力を保ち続けた「法皇」や「有力貴族」は、この悪い典型例である。ところがお祖師さまの場合、どれほど俗世間の問題(安国)に関心を寄せようとも、それらが全て出世間的な価値観に基づいてなされていたこと、すなわち、お祖師さまの精神・視座がどこまでも出世間的であったことを見逃してはならない。
 仏教では古来、蓮華が尊ばれてきた。それは、蓮が泥土に根を張りながらも泥水には汚されない清浄な華を咲かせることを、人間が煩悩の垢にまみれた俗世間・世俗社会に生まれながらも、清浄な仏・菩薩へと成長できることに喩えたからである。インドはカースト社会であったため、出家者はその社会に根を張ることなく、「根無しの浮き蓮華」となり、13世紀にはついにインドから消え去らざるをえなくなかった。日本では仏教徒という蓮が「社会にきちんと根を張り、しかも清浄な華を咲かせることができる」ことを身をもって示して下さったお祖師さまは、間違いなくお日様に比すべき大輪の蓮華なのである。南無日蓮大菩薩。南無妙法蓮華経。
(論説委員・鈴木隆泰)

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2016年7月1日号

仏教者の使命を再考すべき時

ネット通販サイト・アマゾンジャパンが、インターネットメディア運営会社「みんれび」の「お坊さん便」の販売を開始した。「お電話一本で法事・法要の手配、定額のお布施で僧侶を紹介します」というホームページでは「今までお寺と関わりがなく依頼の仕方が分からない・お布施の金額が分からない・今まで付き合ってきたお寺のお布施が高くて悩んでいる・僧侶を呼びたいが檀家になりたくない、そんな方の悩みをすべて解決します」とアピール。さらに「お布施の追加料金無し、お坊さんとは一度の読経ごとのお付き合い、紹介料は無料」などと宣伝している。
今年3月、全日本仏教会は「みんれび」に対し「お布施はサービスの対価ではありません。同様に戒名・法名も商品ではないのです。…僧侶の宗教行為を定額の商品として販売することに大いなる疑問を感じます」と販売中止の要請文を送った。確かに布施を「定額化」することは問題だ。布施とは執着を取るための修行の1つだからである。ただ日頃から仏教者が「布施は執着心を取るための修行です」と説いてきたかが問われる。
「みんれび」に対する消費者の評価はさまざまだ。要約すれば「このような多様なサービスアイデアは素晴らしい」「元々定価のない世界、こういう明朗会計のサービスも有りかと思う」「何を今さら反発だ。仏教会が宗教的行為を長年放置していたことこそが責められるべきだ」「今時の坊さんは長髪・髪染めは言うに及ばず…厳しい修行を積むといっても1~2年の期限付きで一体どれ程の徳を積まれたのか首を傾けたくなる御仁も多い」などである。
第一生命経済研究所では、日本の葬儀形態の変遷を、人口動態と経済面から家族葬ー密葬ー直葬ー「ゼロ葬」と予測した(第6回日本仏教心理学会学術学会)。将来、少子化と経済力低下で葬儀が激減するという。ならば今、僧侶が「お坊さん便」等を問題視する前に、仏教者本来の使命を再考すべき時でないだろうか。
 日本初の寺院建築・大阪四天王寺には敬田院(礼拝所)・療病院(病院)・施薬院(薬局)・悲田院(福祉施設)が併設され、僧侶が仏教者・医師・薬剤師・福祉士として人々の苦悩に寄り添っていた。つまり僧侶本来の役目は法要儀式だけでなく生老病死の苦悩に寄り添う活動だったのである。  
僧侶がこの原点回帰するためには、第1に一般常識を身に付け、社会から一層信頼を得ることが必要と考える。寺で生まれ育ち社会経験の乏しい僧侶には、少なからず一般常識に欠ける面がある。寺では自分の思いどおりに振る舞えるからだ。名刺交換・敬語表現・行儀作法・茶菓作法・電話応対・クレーム対応などには基本的マナーが必要だ。初対面の第一印象は10秒以内で決まり、その要因の55%が視覚からと言われる。僧侶らしい身なりと仕草こそ社会の信頼を得る第一歩となる。「お坊さんの常識は社会の非常識」と言われないようにしたいものである。第2は救済力である。人びとの苦悩に寄り添う活動には包容力と覚悟が必要だ。「一切衆生の同一の苦は、悉く是れ日蓮一人の苦と申すべし」(『諫暁八幡抄』)という宗祖の「代受苦」の精神を追従し、様々な「いのち」のあり方と真剣に向き合う活動が大事だと思う。第3は寺門の開放である。しばしば「お寺は敷居が高い」と指摘される。寺院を地域に開放し何時でも誰でもお参りしやすい雰囲気が仏縁を結ぶ。今後、葬儀や墓以外で如何に社会と繋がるかが僧侶の活動に求められるだろう。  
(論説委員・奥田正叡)

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新年のご挨拶。

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