論説

2016年5月20日号

現世安穏の祈り

「現世安穏」とはどういうことなのか。戦争もなく、事故や災害で苦しめられることもなく、衣食住が充足していて、人と人との争いもない社会に住んでいられれば、それが現世安穏ということかと思うが、眼前の現実社会は安穏とは程遠い。
大震災を始め、多くの事件や事故、いじめ、自殺、少子高齢、人口減少、はたまた経済の低迷と社会保障の後退などの社会不安が渦巻くこの現実の社会の中にあって、私たち凡夫は苦しみと不安に苛まれている。
この社会の現実を、凡夫の目で見れば「劫が尽きて大火が燃え盛っている」ように見えるのであるが、仏の目で見れば、それはそのままで「我がこの土は安らかで穏やかである」と見えるのだという。だとすれば、混乱した世の中そのもののままで、そこに仏の浄土を見ることができる心の目を養うこと、わが心の中の仏界を磨き育てることこそが大切であり、現実の社会現象に対する改善努力は不要なのだろうか。
日蓮聖人による法華経の理解は決してそうではない。戦火の下で、銃弾に倒れていく人を横目で見ながら、我一人心の平安の中にいることでもってよしとするものではない。現実に戦火を止め、銃弾に倒れる人をなくす努力なくして、真の仏国土実現にはならない。
しかし一方、社会的な諸問題に対して、現実的な解決策を講じるだけでは、本当の社会の平安には繋がらない。経済的な不安を解消するためにすべての人に必要最低限の収入を保証したらどうなるだろうか。労働の努力なくして衣食住が保障される社会になったらどうであろうか。競争せずに高等教育まで受けられるシステムを整備したらどうなるだろうか。恐らくそれらの欲求を満たすだけでは、必ず新たな不平や不満が生まれ、決して心豊かな平和な社会が築けるとは言えないだろう。現実具体的な対応と、心の側面からの対応と、両者が必要であることは自ずから明らかである。
現実の社会の苦の原因を取り除く即物具体的な努力と、心の中を観じて仏界を見る目を養うこととの両方が必要である。自行と化他に亘る菩薩行、自行と化他とが一体となった菩薩行こそがすなわち立正安国というものであろう。
大災害においても、まずは被災者の命を救い守るための速やかな具体的な活動と支援が求められるのは勿論であるが、それと同時に、心の真の平安をもたらすための信仰的なアプローチをないがしろにしてはならない。
一方、すべての人がお題目に帰依することによって社会の平和が実現されるのだが、まだそこまで到達できていないために、我々の身の回りに三災七難が起こるのだと主張する人もいるが、そこには本質的な問題が潜んでいる。
自らの中に仏界を顕現せずして、他に勧め求めることは本末転倒である。王舎城で托鉢をするアッサジの姿の威儀端正に感動した舎利弗尊者が、その師を尋ね釈尊と知り、即座に仏弟子となったという故事に学ぶべきことは多い。信仰者一人ひとりの姿、信仰者の集団としての教団の姿が、理念を実現した姿になっているかという問いは、奉ずる理念の正しさを証明する重要な要素になる。信仰者は、なべてこのことを真摯に受け取めるべきであろう。「求道すでに道である」との宮沢賢治の言葉は重い。道を求める心が真摯でなければ、その歩む道は迷いに満ちたものになる。真摯な心で求めているものであれば、その歩む道は、たとえ苦難に満ちていても、清らかな道になる。
「現世の安穏ならざる事をなげかざれ。」(『開目抄』)
(論説委員・柴田寛彦)

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2016年5月10日号

消えゆく春の小川

春の小川はさらさら行くよ
えびやめだかや小ぶなの群れに
今日も1日 日なたで泳ぎ
遊べ遊べとささやきながら
(曲 岡野貞一、詞 高野辰之、改作 林 柳波)
誰もが小学校のとき習った懐かしい唱歌である。まだ田や畑が周囲に存在する地方都市に住む筆者は、歌詞にあるような小川が流れる道を歩いていて、自然とこの唱歌を口ずさんでしまう。だが小川にはメダカも小ブナも見当たらない。
ふと遥か少年の頃を思い出す。そのころ田舎へ行けばどんなに狭い小川にも清らかな水が流れていて、春の小川の歌詞のとおり、エビやメダカやフナが泳いでいるのが見え、友だちとタモ(網)ですくって遊んだものである。稲作の水田に苗を植え付けてから生育する間に、独特の農機具で草取り作業が行われたが、そんなとき水面に亀が顔を出すこともしばしば。また、小川にいるドジョウを捕まえるため、モンドリ(生け捕り用の罠)に餌を入れて前の晩にかけておくと、翌朝、モンドリにはいっぱいドジョウが入っていた。どんな小さな川にもメダカや小ブナがいるのは当たり前の時代だった。夏の夜はホタルが飛び交い、あぜ道を走った少年のころはもうセピア色になった遠い思い出となった。今では、メダカも小ブナもドジョウも田舎町の川からは姿を消してしまったようである。きれいな水が流れていても、どの小川にもメダカやフナなど見つけられない。それどころか立ち止まって流れをじっと見ていても生き物らしきものは一匹も見当たらないのだ。こういう状況は随分前からあったが、あらためて水ぬるむ小川の流れに手を入れていると、昔を懐かしく思い出しながらも、残念に思えてならぬ。
川から生きものがいなくなった原因にはいろいろあるだろうが、工場からの廃液や農薬の使用、合成洗剤を含む家庭排水など、複合汚染が要因であると指摘されている。食料を生産するための農薬使用量には制限があるが、それは人間に害を与えないための制限であるため、川の生き物がどんどん減少していったということは、川の水を利用する人間にだっていいはずはなかろう。
田舎町は、以前は田や畑であったところを開発し、家を建てたことにより、場所によっては住宅街に挟まれるように田圃が点在しているのが現状である。道路はアスファルトで小川はU字型のコンクリートによって溝ができていて、昔のままに存在しているが、メダカや小ブナなどは生息しにくい環境になっている。その小ブナも生息できなくなった小川の水を田圃に引いて、稲を育て米を収穫するのであるから、長い目で見れば人間に悪い影響を及ぼすのではないかと心配になる。
〝春の小川〟を歌いながら、山や川や里の様子など自然の風景を思い起こし、もう昔のような川にもどることはないのだろうと自問する。幼い子どもたちが裸足で小川に入って遊んでも、安心していられる自然を取り戻したいと思うのは筆者ばかりではないだろう。
(論説委員・石川浩徳)

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2016年5月1日号

それでいいのかニッポン?!

匿名ではあるが、乳幼児の母親から「保育園落ちた日本死ね」で始まるネット投稿をメディアが取り上げて話題になった。安倍首相は、「匿名では実態がわからない」と国会で答弁をしたことからさらに母親たちの感情に火が付き、国会前で「保育園落ちたの私だ」というプラカードを掲げて抗議している様子がメディアで大きく取り上げられていた。
原文を一部抜粋してみる。(以下)「何なんだよ日本。一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日見事に保育園落ちたわ。どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。子供を産んで子育てして、社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに、日本は何が不満なんだ? 何が少子化だよクソ。子供産んだはいいけど、希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからって言ってて子供産むやつなんかいねーよ」とこの先も保育園に入れなかった怒りは、上品とは言えない言葉で感情的な文章となって続く。
私は、この文章を読み、多くの乳幼児に関わる者として思いを巡らした。現代日本の様々な実態が伺える文章だからである。1つには、待機児童数の増加に伴い、母親の不安と苛立ちが真摯に読み取れる。これは、待機児童数が、平成27年4月に全国で約2万3千人であったが、当時、発表では同年10月には約4万5千人になるであろうとされている(厚生労働省)ことが反映している。仕事に復帰しようとしている母親たちにとっては、驚愕の数が示されたのであるから、何としてでも子どもを預かってもらえる保育園を探そうと必死になるであろう。
待機児童の特徴は、首都圏に集中していること。又、0歳から2歳までで約92%、その内0歳に限っては43%を占めている。これも、短い産休問題だけでなく、母親が子どもの月齢が早ければ早いほど確実に預けられるという確約を欲して低月齢化へと促されていく。介護高齢者施設が抱える福祉施設の問題と同様、保育園、保育士不足へと繋がっていくのだ。
国は、待機児童解消策として保育士、保育環境の条件を緩和しようと働き出している。さらに、メディアでは著名な教育者と称する方々が雄弁にこれを推奨するコメントをしている。それでいいのか日本?
保育現場は、過酷な状況に悲鳴を挙げ、保育の質の低下と危機管理に警笛を鳴らしている。つい先日も大阪、東京で起こってしまった乳児の死亡事故の背景には、これが指摘される。
次に、子育てしている母親とその子の関係に幸せという空気が伝わってこない。元来、子を授かり生み育てる中で、ほんわかした空気が母子の間に流れていたはずである。
今、宗門は日蓮聖人ご降誕800年に向けて様々な取り組みを進めている。それを象徴するポスターには、こちらに向かって合掌する人々の姿が映されている。人々が、誕生仏やご本尊に合掌することは多く目にしてきたが、これを見ながら思うのである。まるで仏さまのような穏やかな顔でこちらに向かって笑う幼子を眺めながら「生まれてきてくれてありがとう」という合掌の気持ちを持つことができれば、保護者は、主体である子どもの気持ちを優先する慈悲の心を取戻すのではないか。そして日本社会は、これから毎年保育士待遇、保育園増設のための1兆円予算を計上するなどの、浅はかな施策を転換し、家庭を再構築すべく父親、母親を家庭に還そうという目覚めに導かれるのではないか。
日本に菩薩心の目覚めを祈る。
(論説委員・早﨑淳晃)

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  • 名句で読む「立正安国論」

    中尾堯著
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  • 日蓮聖人―その生涯と教え―

    日蓮宗新聞社編
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