全国の通信記事
2016年3月27日号
大阪市 大塩父子・殉難者180回忌法要
【大阪市】3月27日(土)、北区成正寺(有光友昭住職)において有光住職を導師に大塩父子・殉難者180回忌法要が営まれ、続いて記念講演が催された。法要・記念講演には「大塩事件研究会」(会長・薮田貫 兵庫県立歴史博物館館長、関西大学名誉教授)会員および関係者が多数参列し、記念講演は神戸大学経営経済研究所准教授高槻泰郎氏の「御用金政策に見る豪商と大坂町奉行所与力の関係」。参加者はみな熱心に傾聴していた。
大塩平八郎は日蓮宗の信者であり、北区末広町・成正寺を菩提寺と定めていた。大塩家の墓は乱後に廃墓とされたが、成正寺により密かに境内地中に埋蔵されていたものを明治期以降に再び建立していた。
天保8(1837)年2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者でもあった大塩平八郎中斎(1793~1837)が飢饉のさなか、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を糾弾し、摂津・河内・和泉・播磨といった広範囲にわたる地域の窮民救済を求めて、奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率い、「救民」の旗を掲げて、天満の自宅から大坂城をめざし、幕政の刷新を期して決起したのが事件のあらましである。この事件はわずか半日で鎮圧されたが、乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。
しかし大塩が発した「檄文(げきぶん)」は大名から民衆まで密かに写され、また乱の情報は全国津々浦々に広く伝わり、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。明治維新に先駆けること30年、歴史学的にはこの事件を持って明治維新の幕開けと位置付けられている。成正寺には大塩中斎や事件に関する歴史的資料も多く残されている。
昭和26年、菩提寺である成正寺を中心として大塩事件関係者の追悼・顕彰をつづけきた「大塩中斎先生顕彰会」が設立され、6年後には空襲で損傷した大塩中斎・格之助親子の墓碑が再興された。
昭和50年、同会を母体として、追悼と顕彰だけにとどまらず、事実に基づいた研究と調査、そしてその成果を市民に還元を目的として「大塩事件研究会」が設立された。研究会事務局は成正寺内におかれ、ほぼ隔月で講演とフィールドワークが行われ、当時の幕末天保期の時代背景、社会経済や社会状況の変化などから多面的に事件を研究し、正に「行動の人」大塩中斎の遺志を引き継ぎ、伝えるような研究会としての活動を展開している。
来年には180年を迎える大塩事件であるが、今日我が国の政治の混乱ぶりを「知行合一のひとたち」はどのように見ているのかと思わず想像を広げてしまう。
兵庫西・法徳寺春季大祭典で高齢のやくよけ餅まき
【兵庫西】朝から晴天に恵まれた3月27日、兵庫県加古川市法徳寺(花房英俊住職)に於いて、毎年恒例の春季大祭典が行われた。これは例年3月末の日曜日に行われている法要で、この日は朝から読誦会が行われ、その後参拝者の祈願や管内布教師に寄る法話が行われた後、厄年の人が撒く厄除けの餅撒きが執り行われた。
この行事の歴史は古く今から100年程前の法徳寺が教会だった頃から毎年行われているそうだ。昔はこの日になると、教会周辺を多くの露店が取り囲み、当に地域のお祭りとなっていたとのこと。今でこそ露店は無くなったが、今年も餅撒きの時間になると、地域の子供連れの方々がお寺に足を運び、餅撒きの矢倉を取り囲んだ。総勢150人程が境内で矢倉を取り囲むと、厄年の男女計8名に依って、盛大な餅撒きが2回に分けて行われた。
総代の本岡和久氏は「時代は年々変わってきて、その流れに合わせるのは大変なことですが、このように昔から続く地域の行事がこの法徳寺を中心として行えるのは嬉しいことです。」と話して下さった。
愛知尾張・一宮市良顕寺で法統継承入退寺式
【愛知尾張】3月27日一宮市 良顕寺(高石淨顕住職)で法燈継承入退寺式が行われ、多くの僧侶檀信徒が参列した。初めに新住職第3世淨顕師が役稚児と共に入堂。天童の献供の後、天童子代表 長野流也(るきや)くん石黒加恩(かおん)さんが新住職を祝う天童祭文を読み上げ御宝前を彩り、住職の証である払子(ほっす)が法蓮寺住職宮﨑貞悟師より淨顕師に手渡された。淨顕師は新住職就任を御宝前に告げる奉告文言上の中で感極まる場面もあり、感動的な法要となった。
法要の後、尾張宗務所長 圓行寺住職安藤晴雄師、勇師法縁代表 円立寺住職近藤潮賢師、組寺代表 妙泰寺住職松永寿遠師が祝辞を述べ、続いて前住職、総代、新住職の順に謝辞を述べた。
前住職浄慎師は、住職歴68年。戦後の苦しき時代にもお題目布教に邁進され、法燈を護り続けた。その御功労に感謝し寺族からは花束が贈呈された。淨顕師は、参列の僧侶檀信徒に感謝を述べ、新住職の決意を語った。