論説

2016年2月20日号

日蓮聖人の寄り添う心

佐渡流罪赦免後、53歳を迎えられた日蓮聖人(1222―82)は、文永11年(1274)5月12日、相模国(神奈川県)鎌倉を発って、甲斐国(山梨県)身延山へと向かわれました。鎌倉幕府の御家人で波木井郷および数箇所を所有する領主であった波木井実長(1223―97)の招きによるものです。それ以降、聖人は61歳の弘安5年(1282)9月8日、身延山を発って、武蔵国(東京都)池上へ向かわれるまでの数え9ヵ年間、この地で過ごされます。
聖人は、三間四面のお堂の内で、出家のお弟子方を慈育され、また遠路より訪れる信徒方との交流があり、さらに信徒方から届けられる供養の品々に対して、丁寧なお礼の手紙をしたためられてます。
身延入山の翌年には、『撰時抄』という、110紙からなる長文の御書を執筆され、さらに翌建治2年(1276)3月に、若き聖人を導かれた清澄山の旧師道善房死去の報せを受けられたことで、『撰時抄』と同じように長文の追悼文をしたためられました。これは『報恩抄』と名づけられ、弟子の日向上人に托して、清澄寺の兄弟子であった義浄房、浄顕房のもとに届けられたのです。
このようなご生活の中で、59歳を迎えられた聖人のもとに、弘安3年(1280)9月6日、駿河国(静岡県)富士郡上野郷の領主であった、故南条兵衛七郎の忘れ形見である七郎五郎の死去の報せが届きます。聖人は、ただちに母尼に対して、手紙を書いて使者に托します。その手紙は、つぎのようです。
「南条七郎五郎殿がお亡くなりになれれたことをうかがいました。
人はこの世に生まれて、そして死ぬという定めは、智恵ある人も、そうでない人も、身分の高い人、低い人にかかわらず、すべての人の知るところですから、人が死んだからといって、はじめて嘆くとか、驚くということはあらためて感じるものではないということは、私自身も承知していますし、他者にも教えてきました。けれども、まさにいま、ご子息のご逝去に直面しますと、夢ではないのか、幻ではないのか、と感じられ、いまだはっきりと受けとめられることができません。
私日蓮でさえそうですから、まして母上であるあなたのお嘆きはひとしおのこととお察しいたします。あなたは、実の父母にも、兄弟にも死別され、その上大切な夫をお亡くしになられましたが、幸いにもお子たちが多くいらっしゃいるので、それを心のなぐさめとしていらっしゃったことでしょう。ところが、このたびとても可愛いお子さん、しかも男の子、顔かたちもすぐれ、こころもたよりがいのあるように思われたので、周囲の人たちも、将来を楽しみされていました。そのようなお子を亡くされたのは、無情にもつぼみの花が嵐にしぼみ、皓々とかがやく満月が、たちまちに暗曇にかくれてしまったと、お思いになられていることでしょう。
わたしは、いまだ本当のこととは思えませんので、何かお書きするということすらできません。いずれまた、お便りいたします。謹んで申しのべました。」(現代語訳・『昭和定本』1793頁)
聖人は、死別の悲しみを全身で表現されています。手紙を拝しますとき、聖人の広大で豊かなお人柄を感じずにはいられないのです。同時に、凡夫の私は、大切な方々との死別の悲しみに襲われるのです。  (論説委員・北川前肇)

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2016年2月10日号

あんのん基金に思いを託す

本年に入って間もなく、井戸まさえ著『無戸籍の日本人』という本に出会った。
戸籍のない人たちの存在は、2014年に、NHK「クローズアップ現代」で「戸籍のない子どもたち」として放送されて大反響となっていたから、ご存知の方も多いと思う。
この番組が放送されたときには衝撃を受け、現代社会の暗部を垣間見たように感じたのに、この本に出会うまで、戸籍を持たずに辛苦に喘いでおられる方々の存在を忘れてしまっていた。恥ずかしい限りである。
ところで、個人的なことであるが、昨年は、生まれて初めての入院と手術を経験し、その療養と体力の回復に費やした年であった。現代の医療水準の高さのおかげか、現在では以前の体力にまで回復している。ありがたいことだと思う。
ただ、その分、多額の医療費が生じてしまったが、健康保険制度と高額療養費制度によって、直接の支払いは5分の1程度で済んでいる。しかも、多少の手術・入院の保険金も受け取れたことで、図らずも健康保険や医療保険のありがたみを実感することになった。
しかし、もし自分が無戸籍の立場であったならば、健康保険等に加入することも難しく、結局は多額の医療費を全額自己負担しなければならない。しかも、普段から収入の道が限られて厳しい生活を強いられているであろうから、始めから適切な医療などはあきらめざるを得ないのかもしれない。すでにこの世の人ではなくなっている可能性が高いということだ。
『無戸籍の日本人』では、無戸籍の人たちが生まれる理由について、5つ挙げている(52~53頁)が、その中で、社会的に問題となるのは、「①「民法772条」の嫡出推定、いわゆる「離婚後300日問題」などの法律が壁になっているケース」と、「②親の住居が定まらない、貧困などの事情により、出産しても出生届を出すことにまで意識が至らないか、意図的に登録を避けるケース」の2つであろう。
①については、昨年末、女性は離婚後6ヵ月間再婚できないという規定が最高裁で違憲と判断されたので、法改正が進む可能性がある。また、②については、若い世代の貧困の問題とも絡み、表に現れにくい社会問題の一端と言えよう。
この本の著者である井戸まさえさんは、県会議員や国会議員を経験されており、今も政治活動をされているという。その忙しい中で、無戸籍の人たちを救う活動をなさっておられるのであるから、本当に頭の下がる思いだ。
しかし残念ながら、私にはこの著者のような無戸籍の問題に特化した活動は不可能である。そしてそれ以上に、私たちが注意を払わなければならない社会問題は多岐にわたり、日本だけでなく、世界中に溢れている。
それゆえに、自分には何もできないなと思ったときには、私は「日蓮宗あんのん基金」に寄付をすることにしている。あんのん基金は、世界各地で国境を越えて活動するNGOから、地域に根ざして着実な活動をしているNPOに至るまで、その活動内容を有識者の皆さんが精査して、申請に応じて寄付金を配分している。
むろん、具体的活動に実際に参加することが大切だということは十分承知しているが、あんのん基金への寄付は、人びとの多種多様な苦しみや悲しみに敬いの心を持って寄り添い、少しでも役に立ちたいという思いを託すということである。安穏な社会を実現するために。
(論説委員・中井本秀)

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2016年2月1日号

エントロピーをいかに抑制するか

平成28年の新しい年の幕開けは、必ずしも希望に満ちたものとは言い難い。
少子高齢化、人口減少の流れは止まる気配を見せず、経済再生は、大企業はともかく地方への波及を安易に見通すことはできない。新年早々の北朝鮮の核実験や混迷を深める中東での宗教を背景とした戦乱は、世界平和の実現からほど遠い現状を物語っている。
生物学者の福岡伸一氏は、「組織の硬直化や衰退、あるいは人口減少や過疎化による地方都市の不活性化やインフラの劣化は、すべてエントロピー増大の危機といえる」と述べている。エントロピーとは「乱雑さの尺度」であり、エントロピー増大の法則とは、「世界は常にエントロピーが増大する方向に、すわなち〝秩序から無秩序へ〟という方向に進む」というものである。自然も社会も、秩序化への努力を怠ると、必ず無秩序化し混乱するというのがこの法則であるが、人間の体は、細胞の中にたまる無秩序化の要素(エントロピー)を常に外部に捨て続けることによって(エントロピーを減少させることによって)恒常性が維持されている。つまり、新しいものを取り込むと同時に、古くなったもの、無駄なもの、害になるものを体内に貯めこまず、常に排出し続けることが、健全な体を維持するために必要な条件なのである。
同じことは社会にも、国にも、国際社会にも当てはまる。川を渡るために用いた筏を、渡った後も担いでいたら遠い道を歩むことができない。また、建物を建築するために作った足場を、完成した後もそのままにしていたのでは、建物の本来の目的を見失ってしまうであろうとは、法華経の大切さを示す例として日蓮聖人が繰り返し使った例えである。同じように、その時その時の必要に応じて用いたもので大いに役立ったものであっても、必要がなくなってからいつまでも後生大事に抱えこんでいては、その後の発展に障害になることはよくあることである。筏をいつまでも抱えて歩くこと、建築完成後も足場をほどかずにいることは、エントロピー増大につながる。
このことは、大切なものを変わらずに保ちつづけるためには、常に不要なものを排出し変わりつづけなければならないという、極めて逆説的なことを示唆している。逆説的ではあるが、よく考えてみれば首肯せざるを得ない真実である。
とは言いながら、不要なもの、無駄なものをすべて排除することは、現実的には不可能である。
悟りを得るためには、あらゆる煩悩を絶えず排除し、捨て続けなければならない。すべてを捨てきったところに清浄なる悟りの世界が広がるのだとする教えが、原始経典の中には確かにある。しかし、現実社会に生きる凡夫にとってみれば、煩悩をすべて捨て去ることは不可能といってよい。まさに市場で獰猛なトラを放し飼いで売っているようなものである。
それではどうすればいいのか。日蓮聖人の教える方策は、休みなく降り注ぐ煩悩の埃を、お題目によって払い清め続けること、あるいは、煩悩の埃をお題目によって清らかな飼糧に作り代えて、清浄なエネルギーとして活用することである。
そのためには、一時的に燃え盛る火のような信仰ではなく、常に流れつづける水のような信仰が必要であると日蓮聖人は教示している(『上野殿御返事』)。
水のように不断に流れつづける信仰こそ、エントロピー増大を抑制し、自らの心、家庭、社会にあるべき正しい活力を生み出す泉になると言えるのではなかろうか。
(論説委員・柴田寛彦)

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