論説

2015年8月20日号

田舎の一寺院と戦争の記憶

戦後70年、戦争を直接経験した人びとも少なくなり、戦争の記憶が消えつつある。
日蓮聖人『立正安国論』には、「国に衰微無く土に破壊無くんば、身はこれ安全にして心はこれ禅定ならん」と示しておられるが、我々は、今時大戦で、衰微する国、破壊された国土の中で、これ以上無いほどの不安、生存の危機を経験させられた。
戦争体験は、次の世代に受け継ぎ、日本が2度と戦争に巻き込まれ無いようにしなくてはいけない。
私の父は住職で、女学校の国語の教師でもあった。昭和19年秋、召集令状を受けて出征した。長男の私は5歳、妹が3歳、その下の妹は、妊娠3ヵ月で、まだ生まれていなかった。
出征の前夜、集まった人が国旗に、名前や激励の言葉を書いたというが、私の記憶にはない。
翌日、父は国鉄富士駅で家族と別れて静岡連隊に入営した。その後1回、母は駿府城趾の第35連隊本部に、面会に行ったという。しかし、その次に会いに行ったときには、もう呉に向けて移動した後だった。兵士達は軍靴が無かったため、ヒタヒタと地下足袋姿で出ていったと聞く。
北満州防衛のため前から居た若い兵士達は、終戦間近、南方に転戦を命じられ、輸送船で移動中、多く海に沈んだという。
清水が艦砲射撃で攻撃され、西の空が真っ赤になったこともあった。B29が編隊を組んで飛来、富士山を目指して来るため、連日のように空襲警報のサイレンが鳴り響いた。そのたびに庭に掘った防空壕に避難した。
富士宮上空で空中戦があり、B29一機が撃墜され、白いパラシュートが降下してきた。男の人たちが、鎌や斧などを持って、恐ろしい顔をして駆けていくのを見た。
近くの中桁というところに、空爆帰りの爆撃機が、爆弾を1つ落としていった。昼飯を囲んでいた一家が犠牲となった。
昭和19年の暮になると、我が寺には東京・大阪から親戚・知人の家族が疎開してきた。
七面堂、本堂、庫裡に、私の家族を含めると五家族が共同生活を営むようになった。
食料が無く、母などが毎日近隣の農家に、食べるものを無心に歩いていたという。
本堂の真鍮の仏具は、供出を強いられた。半鐘は持ち去られ、香炉や燭台は、コンクリート製のものに代えられた。その代用品は戦後しばらく残っていた。
寺内に住む人々の風呂は大変だった。5家族約20人と、近くの鉄工場の2家族約10人が、次から次へと1つの風呂に入った。皆で決めた風呂を汚さないルールがあった。湯船につからないで、外で体を洗うことであった。
父はとうとう帰ってこなかった。
北満州興安嶺を越えて、8月10日頃にはソ連軍が南進してきたという。
司令部は証拠書類を焼却しなければならなかった。そのため、司令部付きの小隊は、本隊の撤退から5日ほど退去が遅れた。その為、移動途中、ソ連軍の戦車隊に遭遇、興安北省免渡河付近で、小隊のほとんどが戦死した。
しかし、戦死の公報は出なかった。 戦後13年、昭和32年の5月になって初めて、父は「戦死した」ことになり、葬儀が執り行われた。
県から戦死の公報を受けて、私と寺の世話人総代と母と3人で、県庁に遺骨を受け取りに行った。20家族ぐらいが集まって、骨箱をもらった。その箱の中には、父が残した遺髪と遺爪が半紙に包まれて入っいただけだった。
檀家の方々は、住職不在を我慢して下さり、私が大学を卒業するまで、母方祖父が代務住職をしてくれたこともあって、私が住職になるのを待っていて下さった。
母は25歳で3人の子どもを抱えて寡婦になり、93歳まで生きた。
直接戦場になったり、爆撃を経験したことがない一家にとっても、2度と経験したくない不幸な時代であった。
(論説委員・丸茂湛祥)

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2015年8月10日号

平和を「つくる」

現在、日本では集団的自衛権を認めるか否かについて、議論が続いています。「賛成」「反対」そして「よくわからない」など意見が入り乱れ、この議論での問題点がわかりにくくなっています。反対の人達からは「日本人が戦争に巻き込まれるかもしれない。他人の戦争に手を貸すのか。そのようなことはすべきではない。」という意見が聞かれます。至極当然な考えであり、議論を進めている政治家はこの意見に応えなければなりません。しかしまた、賛成の人達からは「自分だけ守ってもらえればいいのか。日本の周りの世界で戦争の犠牲になっている人を見殺しにするのか。そのようなことはすべきではない。」と意見が返ってきます。これも傾聴すべき考えです。両者の意見を聞いてわかるのは、賛成の人も、反対の人も、どちらも平和を考えた意見を持っているということです。おそらく、日本では「戦争はすべきでない」と思っている人が大半ではないでしょうか。それにもかかわらず、何故このような議論の対立が生まれるのでしょう。
議論を単純化する謗りを受ける覚悟で、現在の集団的自衛権の議論を俯瞰してみますと、反対の人達は、集団的自衛権によって、日本人が直接戦争に係わって生命の危険に遭う可能性があることを問題視していますが、どうやって日本と日本人を守るかについて具体的な説明がなされていません。一方、賛成の人達は、集団的自衛権は日本と日本人を守るものだと主張しますが、他の国での活動にどのような制限を設けるのか、活動に携わる日本人の安全をどのように確保するのかについての説明が不明確です。
この対立の中で見えるのは、お互いが相手の主張の負の部分、足りない部分を批判している点です。そこで、この対立の見方を変え、双方の人達が「自分の足りない部分を考える機会をもらっている。」として相手の話を聞く耳を持つようになれば、議論が建設的に進み、反対・賛成双方の人達が持っている望みである「平和を護る」ことに繋がるのではないでしょうか。
今年平成27年は、昭和20年の太平洋戦争の終戦から70年の節目の年にあたります。各地で戦没者のための慰霊行事が行われています。慰霊の祈りは、立正安国・世界平和です。私たちは、世界中の人達が平和になることが、先の大戦で犠牲になった人達の霊を癒すことに繋がると信じ、読経を続けています。そこでいつも自問することは「平和は誰が護るものなのか。」「平和を護るために、自分は何ができるのか。」です。私たちが願う平和は、世界中すべての人の平和です。しかし、利害が対立する世界では、すべての人が平等に平和を享受することが難しいのが現実です。そこに誰が平和を享受するかを巡って、解釈の違いが生まれ、対立が起こります。私たち信仰を持つ者は、この厳しい現実にどのように応えればよいのでしょうか。
宗門は今、常不軽菩薩の但行礼拝の合掌を社会に広めようとしています。相手の仏性を信じ、その人が菩薩の心を顕してくれることを願う合掌です。対立の中に入って、政治的な争いに巻き込まれず、合掌して、すべての人達の心を鎮め、実りのある話をする環境をつくる。これが私たち法華経を信ずる仏教者が、平和をつくるために今できることではないでしょうか。
(論説委員・松井大英)

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2015年8月1日号

原爆ドームと震災遺構の語るもの

今年は戦後70年という大きな歴史の節目を迎えるが、また私たち日本人にとっては「被爆70年」という年でもある。
昭和20年8月6日、広島市上空で炸裂した人類史上初となる核爆弾は、多くの一般市民を巻き込んで一瞬のうちにあらゆる物を破壊し、市内は焦土と化したのである。
当時、師父が住職をしていた寺は爆心地から1・7㌔ほどにあり、瞬時に消滅したことは言うまでもない。被爆の瞬間、崩れ落ちる本堂にいた師父であったが、頭上に開いた穴のため奇跡的に無傷で倒壊した本堂から出ることができた。しかし門前にいた母と当時6歳の姉は爆風に飛ばされ、母は建物の下敷きとなり、迫りくる猛火によって背中と腕に大火傷を負うが九死に一生を得た。しかし姉は翌日息を引き取ったのである。
その後、終戦を迎え時が流れていく中で議論されてきたのが原爆ドームの保存問題であった。
今日、原爆ドームは「負の世界遺産」として、原爆の惨禍と核兵器廃絶を世界に訴える大きな使命を果たしている。しかしながら市議会で保存が決定されるまで、原爆投下から20年の歳月を必要としたのである。
原爆を体験した人たちにとって、その象徴として存在する原爆ドームを目の当たりにする辛さは筆舌に尽くしがたいものがある。自らも被爆し家族が傷つき、6歳の娘が犠牲となった師父は、この保存について当時は否定的であった。多くの被爆者がそうであるように、ドームを見るとその当時が思い出されるのである。当事者にとって、その姿が、変わることなく存在し続けるという苦痛は計り知れないものであろう。
今年で東日本大震災から4年を経過したが、現在「震災遺構」の保存について議論が始まっている。この震災遺構には、すでに解体されたビルや船舶などもあるが、学校や庁舎など今後の保存が未定なものもある。
この震災遺構保存問題と原爆ドーム保存問題を並列に比べて考えていくことは必ずしも適切ではないかもしれない。しかしながら、多くの人びとが犠牲となった事実と遺族の心情を思えば、原爆ドームと同様に時間をかけて考えていかねばならないデリケートな問題であろう。果してその時間が10年なのか、あの「ヒロシマ」のように20年なのか、あるいはそれ以上の時間を必要とするのか、現時点で結論を出すことは難しい。
そんな中、南三陸町防災庁舎について宮城県知事は現状の「保存」と「解体」の議論にすぐに終止符を打つのは無理と考え、県が20年所有しその後町に返し結論を出すという提案をして、南三陸の町長はこれを受け入れたという。このような提案、決定も当事者としての苦渋の決断であったと想像するところである。
一被爆者として原爆ドームの保存に否定的な師父ではあったが、けっして保存問題だけに固執するわけではなかった。毎年8月6日の原爆忌には必ず慰霊碑に参拝し、機会あるごとに被爆体験を踏まえたその悲惨さを多くの人びとに語り伝え、命の尊さを訴え、日々お題目を唱え続けていたのである。
原爆ドームも南三陸町防災庁舎も「保存」することだけに意味があるのではない。遺構として存続されるのであれば、一人ひとりの胸に祈りのこころが刻み込まれてこそ、その存在意義があるといえよう。
原爆ドームは70年を経て今もなお世界に向けて平和への祈りを発信し続けている。その祈りを私たちはしっかりと見つめなければならない。
(論説委員・渡部公容)

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