2015年8月10日
「泣いた赤鬼」という浜田廣介の童話がある。
「泣いた赤鬼」という浜田廣介の童話がある。村人と仲良くなるため、「お菓子もあります、お茶も沸かしてあります」と看板を立てた。念願が叶った赤鬼だが、赤鬼のお茶とお菓子のもてなしは、自ら悪役となり犠牲となった親友青鬼を失うという悲しい結果となる▼「お茶が入ったよ」という言葉は、人に恩を着せないすばらしい言い方だという(言語学者金田一晴彦)。「私が入れた」のではないから抵抗なく、自然にその言葉が心に届く。相手の懐に入る言葉が、共にあるというメッセージとなり、心の垣根を取り払うのだろう。お茶を振舞うのにも違いがあるようだ▼「古池や蛙飛び込む水の音」(芭蕉)の句は、蛙が水に飛び込んだ音を聞いた後に、古池を思い浮かべた句だ。現実の音をきっかけとして心にある世界(古池)が開けた句だという(俳人長谷川櫂)▼「ここに1幅の掛軸がある。柳の下の水面に水しぶきが描かれている。これは芭蕉の『古池や』の句の絵だよ。芭蕉は水の音しか聞いておらず、蛙を実際には見ていない。とすれば蛙も芭蕉の心の世界のものとなる。己の心をこの水しぶきの中に飛び込ませたのだろう。『一心欲見仏、不自惜身命』はこの心だろうな」とは大学の恩師の教えである▼「自分が」の「我」を捨て、み仏の懐に飛び込んだ時に見える世界をぜひに見てみたい。まずは身近な妻の懐から入ってみよう。「お茶が入ったよ」。(汲)