2015年4月20日
日頃何気なく使っている道具にしても、
日頃何気なく使っている道具にしても、それが無ければ困ることが多い。ちょっとメモしておきたいと思ってもスマホもない、筆記用具も手元にないとなれば、どうにもならない。あっちだこっちだと探し回っているうちに、何をメモするのか忘れてしまうという恥ずべきことも時にある▼たかがボールペン一本でも大騒ぎ。これが食料や水、空気などという生命に関わるものだったらどうなることか。水や空気は普段気にもしていない。あって当然と意識の外にあるものだが、無くなったらどうなるのかと思うと想像するだに恐ろしい。現実にそれがなくなった時のことを考えれば心の備えをしておくことはとても大切だ。それなのに、そんなこと気にもしないというのが、私たち人間の常である▼これがために仏は身を隠されたと説くのが法華経である。仏は永遠の生命をもって常に私たちに慈悲の御手を差し伸べ見守り続けておいでになるという。しかし私たちはその尊さ有り難さに気付かないほどの鈍い愚か者に成り下がっており、仏はそのことを気付かせるため身を隠されたのである▼仏と同様に宗祖日蓮聖人に対しても、私たちはその有り難さを忘れ気にもかけないようになっているのかもしれない。時に仏が、宗祖がおいでにならなかったら、と思うことも大切だ。今月28日は立教開宗の日。新たな思いを胸にしたい。(直)