論説

2015年1月20日号

被爆70年の年を迎えて

湯川秀樹博士の命懸けの反核運動を顕彰し、現実を見つめよう
「核兵器は人類と共存できない」。日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の言葉である。「原子力の猛獣はもはや飼い主の手でも完全に制御できない凶暴性を発揮し始めた」と、湯川博士は原子力そのものに対しても警告を発している。
今から70年前、米国が原子爆弾を兵器として使用し広島長崎に投下、一瞬にして約30万人の命を奪った。これを期に日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をして太平洋戦争は終わりを告げた。昭和20年8月15日である。戦争で唯一被爆国となった日本は国中が焼け野原と化し、人びとはこの世の地獄を味わった。この事実は何十年経っても忘れることはできない。
戦後、原爆の製造にもかかわったアインシュタイン博士は、湯川博士ご夫妻の手をとって「自分が研究したことが原理となって原爆ができ、罪のない多くの日本人を殺すことになってしまった。申し訳ない」と涙を流しながら言ったという。その後まもなく、核廃絶の趣旨を明らかにした「(バートランド・)ラッセル=アインシュタイン宣言」が発表された。湯川博士はこの宣言文に同調して署名、以来アインシュタインと誓ったことを終生忘れず実行し、平和運動に生涯をかけられた。
原爆の製造も使用も実験も絶対にしてはならないのはもちろんだが、原発もこの世から廃絶していかなければならない。核のいかなる施設も使用も人類にとって不要である。核の開発はこの地球にとって恐ろしい存在である。だがその後、こうした著名な科学者たちや多くの被爆者と国民の声を無視して、世界は核の製造実験を繰り返し、昭和29年4月、ビキニ環礁での水爆実験では第5福竜丸が被爆し、乗組員久保山愛吉さんが死亡した。直後の核実験反対の署名は3千万人を超えた。にもかかわらず、米ソの軍拡競争は激しさを増し核抑止論まで出始めた。いわゆる力の均衡で戦争を起こなさないという考え方である。
こうした時期に日本では原子力発電所の設置こそ産業の飛躍に急務であると、原子力の平和利用の宣伝映画が作成上映され、昭和30年には東京の日比谷公演で原子力平和利用博覧会が開催され、翌年からは全国20ヵ所でも開催された。政府は原発推進を国家的事業として行うと発表。その10年後には東海村に日本初めての原子力発電所が設置され運転を開始、以来、全国に56基も原発施設が設置された。しかし、承知のごとく施設も故障が頻繁に起こり、現在、満足に稼働しているのは1ヵ所もないありさまである。あげくは平成23年3月11日の福島原発3基がメルトダウンを起こし、収拾が困難になっている。
昭和50年、パグウオッシュ会議(ラッセル=アインシュタイン宣言をもとにした会議)が京都で開かれたとき、核抑止力を主張する意見が出て、湯川博士は「これではこの会議の存在の否定になる」と、直後に「湯川・朝永宣言」を発表、アインシュタインと誓った原点に返らなねばならぬと、核廃絶を訴えた。昭和56年博士は科学者京都会議に重病の身でありながら車いすで出席。その席で「最近事態がますます憂慮すべき状態になっている。私たちは何度も初心に立ち返り、核兵器の全廃を改めて声を大にして叫びたい」と、最後の力を振り絞って演説し、その3ヵ月後74歳の生涯を閉じたのである。
日蓮宗はし昭和30年代、宗門あげて核廃絶を訴え平和運動を戦後の中心的信仰運動として推進していた。年を経て形は変わっても立正安国の精神を生かした世界立正平和運動を続けている。今年、被爆70年の節目にあたり、国連では大々的に軍縮会議が持たれようとしている。本宗では過去何度も国連に代表を送りメッセージを届け、法華経の教えに基づく世界平和を訴えてきた経緯がある。世界人類のみならず、地球上すべての存在にかかわる核問題をいま一度見つめ直したいものである。
(論説委員・石川浩徳)

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2015年1月10日号

「ありのまま」を考える

昨年末は一年の出来事を振り返りながら、その時の風景を思い浮かべ、時に胸熱くなり、時にがっかりし、時にこみ上げてくる笑いを押し殺したりして過ごした。その笑いを誘うのが、映画「アナと雪の女王」を観た子どもたちの後日談と姿である。
当幼稚園の園庭遊具の高いところは、遠く東京都と千葉県の境を流れる江戸川の土手が眺められる展望の高さがあり、大人がそこに立っても心地が良い。そしてここは、時代によってシチュエーションが変化する。例えば流行しているヒーローの基地やエベレストの山、海賊の隠れ家などであるが、今年、どうやらほとんどの女児にとって、ここが氷のお城の展望台に見えたらしい。皆、順番待ちの行列を作りやっと回ってきたお城の展望台に立ち、「ありのままのーすがたみせるのよーありのままのじぶんになるのー」と空に向かって熱唱し、満足といわんばかりの顔で降壇。次の人に譲るという一連の流れが面白くて、私も彼女たちに絶賛の拍手を送った。
一人ひとりを思い出すと愛おしくて、こみ上げてくる笑いの中に、「そうだよ。君たち! ありのままで行(生)きなさい」という思いが重なるのだ。「ありのまま」という言葉は、ともすると「他人がどうであろうと、自分の本能赴くままに振る舞いをしてもよい」などのわがままで、自分勝手な行動も肯定してしまうように思われる。しかし、私の「ありのまま」を生きてほしい子どもたち、人々への思いは、ベクトルが違うのである。反社会的な態度や行為のことではなく、自分というすべてを受け入れ、大切にするという心もちや思考についてそう思うのである。幼児は、常に私たちに「見て! 見て!」と言って自分を様々な姿で表現する。例えば、逆上がりや自分の描いた絵を得意げに見せてくれる時の誇らしく自信に満ちた姿は、まさに「ありのまま」である。自分に少しも疑いのない晴れ晴れとした表情に、大人の私たちが忘れかけていたものを思い起こしてくれるのだ。
しかし、社会性が最も育つ頃に大人の都合で評価されて育ってきてしまった子どもや、過保護・過干渉によって自分で感じて自分で考えて行動する機会が乏しかった子どもたちは、「ありのまま」を生きにくくなってしまう。子どもたちが歌う歌の原文「Let it go」(レットイットゴー)が「ありのまま」と名訳されたのであるが、この「Let it go」は「捨て置け」という意味も持っている。つまり、ありのままにたどり着く入口には、捨て置く何かが存在するということがあるのではないか。それは、自分の中に抱えている恐れ、執着やこだわり、敷いてはそれを支配する煩悩を捨て置けということなのではないだろうかと思う。
お釈迦さまは、「悟りとは与えるものでも、人から与えられるものでもなく自らが導き出すものである。」と四諦「苦、集、滅、度」を示し、問題解決方法を示してくださった。ありのままに生きるためには、この道筋が存在するのである。そして、ありのままに生きられる時、精一杯自分を活かす喜びを味わいながら、それを受け取ってくれる周りに目が開き、自分自身が人のために活かされる喜びを味わうのかもしれない。自分を苦しめているものからの脱却は、自分がどうしたいのか、どうせねばならないのか、己にかかっている。逆転の発想として言うならば幸せというものは、きっと自分の考え、つまり己次第なのだ。
(論説委員・早﨑淳晃)

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2015年1月1日号

開花期を迎える立正安国・お題目結縁運動

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
■正月は妙の一字のまつり
日蓮聖人は秋元殿に与えられたお手紙の中で、「正月は妙の一字のまつりなり」と言われている。同じ年の正月に著された『法華題目鈔』には、「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがえる義なり」とある。
平成27年の新春を迎え、私たちは一心にお題目を唱え、改めて生き返った気持ちになって、新しい意欲を沸かせていこう。
平成19年に始まった「立正安国・お題目結縁運動」は、前期8年の「第一期播種活動」と「第二期育成活動」を経て、今年から後期7年の「第三期開花活動」に入る。
この宗門運動は、平成33年に迎える日蓮聖人ご生誕八百年の佳辰に臨むに当たって、聖人の立正安国の本願に生きようとする運動である。
開花活動を実践する今年を契機に、私たちは生き返ったつもりで、一層元気を出して、立正安国のお題目を唱えていこう。
■乙未(きのと・ひつじ)の年
今年は乙未の年である。
「乙」の年は、草木の芽が外界に寒さや抵抗があると真っ直ぐに伸びれないで曲折しているように、物事が順調に進まない年である。
もし何かを為すために前進していこうとするならば、紆余曲折は覚悟の上で、希望を沸かせてこれを切り開いていかなければならない。
昨年の「甲」の年は、新しい動きに対しては慎みを持って取り組んでいけという年であった。今年も慎みと明るい気持ちを忘れないで、良くなるという光明感を常に持って生きていく年である。それにはお題目の光で心を照らし、お題目の光で周囲を浄化していくことであろう。
さらに「未」の年は、木に新しい枝が茂ると暗くなるように、何かと暗くなりがちな年である。
だから今年は、決して暗い年にしてはならないという気概を忘れてはならない。その気概を沸かせるために立正安国のお題目がある。法華経に「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」とある。
私たちは世の中を明るくしていくために、「斯の人」の気概を持って、さらにさらに立正安国の唱題運動を盛り上げていこう。今年こそ立正安国のお題目の光明が、現代社会にさん然と輝く年にしていきたいものだ。
■立正安国の祈り
「旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変、地夭、飢饉、疫癘、遍く天下に満ち、広く地上にはびこる。(略)之を悲しまざるの族、敢て一人も無し」。
これは日蓮聖人の『『立正安国論』の初めの一節である。
当時の時代状況と今と全く変わりはない。東日本大震災の復興が未だ遠い中で、昨年は天変地夭が相続いた。ましてや疫病がまん延して世界中を震撼させている。
異常気象がもたらす天災の最大の責任は、人類の生き方にある。「天地は国の鏡」と言われた日蓮聖人のお言葉は、まさに真理である。
天変地変を憂えられた日蓮聖人は、『立正安国論』の結論として、「実乗の一善に帰せよ」と訴えられている。実乗の一善とは立正安国のお題目の祈りである。立正安国のお題目の祈りこそ、私たち人類の生き方を決める行動の原動力である。さあ、今年も精進していこう。
(論説委員・功刀貞如)

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新年のご挨拶。

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  • 名句で読む「立正安国論」

    中尾堯著
    日蓮宗新聞社
    定価 1,365円

  • 日蓮聖人―その生涯と教え―

    日蓮宗新聞社編
    日蓮宗新聞社
    定価 826円+税

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