論説

2014年6月20日号

「学ぶ」を見つめなおす

私たちが、基礎的な学習能力を身につけ、初心者として学問を修めようとする場合、「まな(学)び」、あるいは「なら(習)う」ということの大切さを訓諭されたことを思い出します。たしかに言語を学習する場合には、口の開き方や発声方法を、真似てくり返すという方法が効果的であるように思われます。また、動作をともなう学習の場合には、歩き方や所作の一つひとつを身体をもって真似て学習することが適切なようです。
私たちが、個的存在でありつつ、歴史的・文化的・社会的存在である以上、このような学習方法が有効且つ大切な伝達方法でもあると思われます。
そこで、あらためて「学び」という言葉に注目してみますと、周知のことですが、「学び」は「真似る」と同じ語源であることが知られます。すなわち、学びというのは、興味や関心対象となるものを、そっくりそのまま、真似て再現する意味(『岩波古語辞典』1198頁参照)と解説されています。
私たち日本人は、ユーラシア大陸の東側の島国に居住し、自然的、地理的環境のもとに生活を営んできました。話しことばはありましたが、それをどのように文字として書きとどめるか、という道具としての文字を有していませんでした。
私たちの祖先は、表記の方法として漢字を取り入れ、さらに万葉仮名の時代を経て、漢字のもつ表音性に着目しつつ、漢字の草書体的な側面、あるいは省略的な側面を活用して、平仮名を生み出しました。また、漢文体の文章を、私たち日本人の表現方法で読み下したという願望のもとに、漢字の表音性を活かしつつ、漢字の有している「ヘン(偏)」や「ツクリ(旁)」等を用いながら片仮名を作り出したのです。
もちろん、先人たちが平仮名や片仮名を作り出すまでの過程は、大変な困難さと、計り知れない努力の積み重ねを必要としたものと推測できます。それらのことからも、「ガク(学)」の字を「まなび」と読み、対象をしっかりと認識し、それを真似ることの大切さを強調したものと思われるのです。
ところで、学問・研究の分野に進もうとする時、「学び」の段階を基礎に置きつつ、一つひとつの事実を確認し、分析するという基本作業が求められていることを知るのです。
私が高校を卒業して、大学へ入学した時の驚きと喜びは、「哲学」という講義を受けたことにあります。そこで学んだことは、自己が習得してきた知識、あるいは経験知、あるいは常識を、根本的に疑うということからはじまるというのです。そこに、自己の「無知」を知り、常識というものを俎上にのせるという作業があったのです。
平成23年3月11日の東日本大震災をきっかけとして、それぞれの専門家集団によって蓄積されてきた知識や技術、そして推理力や判断力、さらには研究者の有している倫理観や学問研究の方法論までが疑問視されています。あらためて、専門家自身の自己批判のもとに、研究者としての強い倫理性が求められているように思われます。
日蓮聖人(1222─82)の「法華経の行者」としての一生は、『法華経』を明鏡として自己自身を照射し、時代、社会のありようを映し出されるという生き方でした。そのことに思いをいたすとき、聖人の教えを学び、追体験しようとする場合、自己を見つめ直し、批判すべき規範性と倫理性の必要さを痛感しているのです。
(論説委員・北川前肇)

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2014年6月10日号

当たり前のこと

先日、一度聞いただけでは信じがたいようなニュースが飛び込んできた。アフリカのナイジェリアで、学校にいた女子中学生2百人以上がテロ組織によって誘拐され、奴隷として売り払うと宣言されたのである。そのテロ組織は、女性が欧米的教育を受けることに反対だからだと主張しているという。聞けば、同じテロ組織によって、これまで何度も学校が襲われ、女子中学生が殺害されることがあったそうだ。もちろん、ナイジェリア政府がそのような考え方を持っているはずもなく、近隣諸国や欧米諸国と連携して事態収拾にあたっているとのことだ。誘拐された女子中学生たちが、一刻も早く全員無事に救出されることを願うばかりである。
このような事態は、日本に暮らす私たちには全く理解不能なことだ。現代の日本は、国民すべてが平等であり、思想信条も宗教も自由である。もちろんそれを社会に発言することも自由である。男女を問わず教育を受ける権利を持つ。しかも、それらの事柄については、いかなる者も、たとえそれが国家であろうとも、みだりに侵害することはできない。私たちは、それが当たり前のことだと思い込み、安心しきっている。
しかしながら、このナイジェリアの誘拐事件を通してこれらの事柄を見直してみると、私たちが当たり前と思い込んでいる事柄が、誰にとっても当たり前のことというわけではないことに気づく。
世の中には様々な価値観を持った人々が暮らしている。なかには、私たちが当たり前と思っていることと対立する価値観に固執している人もいる。当たり前のことを護ってくれるはずの様々な制度でさえ、勝手な解釈で自分たちに都合が良いように読み替えるなどということもよくあることだ。
したがって、当たり前のことを当たり前にしておくためには、それなりの努力が必須であるということになる。常に危機が忍び寄ってきているという自覚を持つ必要があろう。
ところで今、日蓮宗では立正安国・お題目結縁運動を推進中である。この運動は、常不軽菩薩の「但行礼拝」を範として、すべての人が互いに敬いの心で接して、敬いの心に満ちた人、そして安穏な社会を築き上げようというものだ。
人それぞれが持つ、個性、思想、宗教、そして価値観を大きく包み込む敬いの心、それこそが安穏な社会づくりの礎となるはずである。
日蓮宗の年度布教方針「合掌」は、今年で3年目になるが、敬いの心を合掌という形に現して、敬いの心を実践するという意味を持つ。家族、地域、そして世界中の人々に対して、合掌をもって接することで、自らの敬いの心を現し伝え、弘めようというものだ。
かつて、この布教方針「合掌」に関して、一部の方々から、なぜ今さら合掌なのか、当たり前のことではないのかという指摘があった。
その時に、私たちは本当に敬いの心をもって合掌しているだろうかと考えてみたが、合掌は、まだまだ当たり前のことになっていないことに気づかされた。
敬いの心を持った合掌が本当に当たり前となり、安穏な社会が当たり前となるよう努力を続けなければならないのだ。
本年度の布教方針には、「檀信徒のくらしの中に根づかせる」という副題もついている。檀信徒の皆さんにもこの趣旨をよくご理解いただき、敬いの心を持った合掌が当たり前のことになるよう、私たちと共に実践していただきたいと願っている。
(論説委員・中井本秀)

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2014年6月1日号

草木成仏の祈り

幾度か大震災被災地を訪れ、多くの生き物を飲み込んだ大地を歩み、お題目を唱えて行脚する時、亡くなった方々の声と共に、大地そのものの悲しみの声を感じ、草木国土全体にみ仏の安らかな世界が実現する日の来ることを祈らずにはいられない。
「草木国土悉皆成仏」という言葉は、実は古来の仏教用語ではなく、貞観11年(869)に、比叡山の学僧の安然がある書物で初めて用いた成句であることを花野充道師が発掘した。そして、まさしくこの貞観11年旧暦5月26日、東北地方太平洋岸に大地震と大津波による前代未聞の大災害が発生していたことが、今般の大震災以降再び注目を集めた。この重要な成句の誕生と貞観地震との歴史的符合から、兵庫県立大学の岡田真美子教授は、貞観地震の折の、大地が裂けて人々は埋もれ、海が雷鳴のように吠え、多くの人命が失われた後の荒廃した風景を目の当たりにした人々が、草木も国土もみな悉く安らかに成仏してほしいと願ったであろう、その願いの結晶として「草木国土悉皆成仏」の妙文が生まれたのではないかと推論している。私も、きっとそうだったに違いないと共感する。
草や木などの植物、あるいは川や海の水や岩石といった無生物に、仏になる性質(仏性)が具わっているのか否かについては、仏教の長い歴史の中で様々な論争があった。すべての存在に仏性があり成仏できるのだという考えに対して、決して成仏できないものが存在するとの考えもあった。すべてが成仏できるとする考えの中にも、植物や無生物それ自体が修行して仏になれるのだとする考えがある一方、人間の心の中に包含されることによって初めて成仏が可能になるとする考えがある、等である。
これらの論議をすべて踏まえた上で日蓮聖人は、釈尊在世から遠く時代を隔てた末法の世の中にあっては、お題目という種を新たに植えなければ、仏になることはできないとして、お題目の種を植える布教活動、即ち下種の活動に一生を捧げられた。人間も動物も、植物も国土も、新たにお題目の種を受けなければ、それ自体では成仏できないのだと。
お曼荼羅や仏像の御本尊が、法華経とお題目で開眼することによって初めて、そうでなければ物質に過ぎない紙や木が、光り輝き梵音声を発する御本尊に生まれ変わるように、お題目を唱え入れる意味は大きい。
日蓮聖人は、「身延山では、吹く風も、ゆるぐ木草も、流れる水の音までも、お題目を唱えないものはない」(『波木井殿御書』)と、身延の沢を吹き抜ける風も、その風に揺るぐ木々や草花、そして川を流れる水さえも、みんなお題目を唱えているという。日蓮聖人自らの手で草木国土にお題目という成仏の種が植えられ、それが育ち実り、草木成仏の姿が現前しているという境地なのであろう。ご草庵跡に一人静かに佇み耳を澄ますと、木々のざわめきや川のせせらぎの音の奥から確かにお題目の声が聞こえてくるように思う。
草や木や石ころも、それ自体では仏になることはできない。お題目という種を植えることによって初めて成仏の道が開けるのだと思うと、愛おしさがつのる。その意味で、お題目は酵素の働きを担っている。
被災地で太鼓を打ち鳴らし、唱題行脚をすることは、亡くなられた方々の菩提を弔うだけでなく、草木国土にお題目の種を植え、その種が育ち実って、国土全体が成仏してほしいという祈りにもなっているのであり、立正安国・お題目結縁の実践にほかならない。
(論説委員・柴田寛彦)

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新年のご挨拶。

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