2014年6月1日
草木成仏の祈り
幾度か大震災被災地を訪れ、多くの生き物を飲み込んだ大地を歩み、お題目を唱えて行脚する時、亡くなった方々の声と共に、大地そのものの悲しみの声を感じ、草木国土全体にみ仏の安らかな世界が実現する日の来ることを祈らずにはいられない。
「草木国土悉皆成仏」という言葉は、実は古来の仏教用語ではなく、貞観11年(869)に、比叡山の学僧の安然がある書物で初めて用いた成句であることを花野充道師が発掘した。そして、まさしくこの貞観11年旧暦5月26日、東北地方太平洋岸に大地震と大津波による前代未聞の大災害が発生していたことが、今般の大震災以降再び注目を集めた。この重要な成句の誕生と貞観地震との歴史的符合から、兵庫県立大学の岡田真美子教授は、貞観地震の折の、大地が裂けて人々は埋もれ、海が雷鳴のように吠え、多くの人命が失われた後の荒廃した風景を目の当たりにした人々が、草木も国土もみな悉く安らかに成仏してほしいと願ったであろう、その願いの結晶として「草木国土悉皆成仏」の妙文が生まれたのではないかと推論している。私も、きっとそうだったに違いないと共感する。
草や木などの植物、あるいは川や海の水や岩石といった無生物に、仏になる性質(仏性)が具わっているのか否かについては、仏教の長い歴史の中で様々な論争があった。すべての存在に仏性があり成仏できるのだという考えに対して、決して成仏できないものが存在するとの考えもあった。すべてが成仏できるとする考えの中にも、植物や無生物それ自体が修行して仏になれるのだとする考えがある一方、人間の心の中に包含されることによって初めて成仏が可能になるとする考えがある、等である。
これらの論議をすべて踏まえた上で日蓮聖人は、釈尊在世から遠く時代を隔てた末法の世の中にあっては、お題目という種を新たに植えなければ、仏になることはできないとして、お題目の種を植える布教活動、即ち下種の活動に一生を捧げられた。人間も動物も、植物も国土も、新たにお題目の種を受けなければ、それ自体では成仏できないのだと。
お曼荼羅や仏像の御本尊が、法華経とお題目で開眼することによって初めて、そうでなければ物質に過ぎない紙や木が、光り輝き梵音声を発する御本尊に生まれ変わるように、お題目を唱え入れる意味は大きい。
日蓮聖人は、「身延山では、吹く風も、ゆるぐ木草も、流れる水の音までも、お題目を唱えないものはない」(『波木井殿御書』)と、身延の沢を吹き抜ける風も、その風に揺るぐ木々や草花、そして川を流れる水さえも、みんなお題目を唱えているという。日蓮聖人自らの手で草木国土にお題目という成仏の種が植えられ、それが育ち実り、草木成仏の姿が現前しているという境地なのであろう。ご草庵跡に一人静かに佇み耳を澄ますと、木々のざわめきや川のせせらぎの音の奥から確かにお題目の声が聞こえてくるように思う。
草や木や石ころも、それ自体では仏になることはできない。お題目という種を植えることによって初めて成仏の道が開けるのだと思うと、愛おしさがつのる。その意味で、お題目は酵素の働きを担っている。
被災地で太鼓を打ち鳴らし、唱題行脚をすることは、亡くなられた方々の菩提を弔うだけでなく、草木国土にお題目の種を植え、その種が育ち実って、国土全体が成仏してほしいという祈りにもなっているのであり、立正安国・お題目結縁の実践にほかならない。
(論説委員・柴田寛彦)