2014年3月20日
東南アジアの日蓮宗徒の信仰がとても熱い。
東南アジアの日蓮宗徒の信仰がとても熱い。彼らは信仰を生き方の規範とし、その信仰に喜びと誇りを感じ、輝いて生きている。一体なにが彼らをそうさせるのだろう▼もともと彼らは熱心な新興教団の会員だった。どんな理由があるにせよ、他教団から日蓮宗になるのは大変なこと。それは元いた教団の親兄弟や親戚・仲間との決別を意味する。いろんな葛藤や軋轢を経ての一大決心が必要。それだけに彼らは実によく勉強し、信仰を「自分の信仰」として受け止めている▼一方私たちはどうだろう。「生まれた家が代々日蓮宗だから」とか「嫁ぎ先が日蓮宗だったので」といった理由で信仰を受け止めてはいないだろうか▼「檀家」とは江戸時代に作られた、信仰を「<RUBY CHAR=”家”,”いえ”>」で受け止める制度で、長い間寺院や宗門を支えてきた。「家」が機能していた次代はとても有効な制度だが、戦後の日本はその「家」が「マイホーム」に、「家族」が「個人」に変わってしまった。それなのに信仰だけが今も「家」のまま残っている▼「家」の信仰に疑問や決断は必要ない。しかし自己決断のない信仰から、生きる規範や信仰の喜び・誇りは生まれにくい。東南アジアの人々が熱いのは、信仰を「家」ではなく「自分」の信仰として受け止めているからだ。縁あって日蓮宗になった私たち。「家」の信仰という縁を大切にすると共に、信仰を「自分」の信仰にするための努力が大事だ。(義)