論説

2014年2月20日号

2月16日、宗祖ご降誕によせて

日蓮聖人(1222―82)が、安房国(千葉県鴨川市)に誕生されてから、今年は793年目を迎えることになります。聖人のご誕生が西暦1222年(承久4年・貞応元年)であることは、直接に聖人から教化を受けた弟子達も、そのことを周知していたと推察されます。
そのことの一つの根拠として、聖人が武蔵国(東京都)池上にて61歳のご生涯を閉じられますが、そのご入滅のありさまと、葬送の順序・次第等を記した直弟子筆録の『御遷化記録』が今日伝わっていることによるものです。
その記録に注目してみますと、聖人の二度にわたる流罪が列記されています。まず、第一の伊豆流罪ですが、弘長元(1251)年5月12日に伊豆国へ流罪となられたというのです。そして「御年40」と明記されています。ついで、佐渡流罪につきましては、文永8年(1271)9月12日「佐土が嶋」(佐渡)へ流罪となられ、「御年50」というのです。
このように、聖人にとっても、門下にとっても大変な宗教的法難の出来事を、聖人の40歳と50歳のこととして記していることが知られるのです。
そして、聖人が61歳の生涯を終えられるのは、弘安5年(1282)10月13日の「辰の時」(午前8時頃)であったと記されています。
これらの3つの記載からも、聖人のご誕生が承久4年(1222)であったことが明らかであります。この年は、4月13日に「貞応」と改元されていますから、古来、聖人のご誕生を「貞応」と称してきたものと思われるのです。
ところで、中世の日本人は、この世においてすぐれた功績をあげる人々に対し、率直な敬意を表してきました。それは、私たち凡人のために、優れた能力を具えた人物が、み仏のはからいとして、この現実世界に誕生されるという考え方です。中世の宗教者の伝記を読んでみますと、たとえば聖徳太子は、観世音菩薩の応現であるとか、歴史上のすぐれた人物の再誕であるという記述などが多くみられるのです。
この由来を考えてみますと、日本に仏教が6世紀中葉に公伝いたしますと、日本古来の神々との信仰が融合化され、神仏習合のもとに、日本の神々は仏教における仏・菩薩方を本地として、この日本国に垂迹されたという考え方が大勢をしめるようになります。つまり、仏・菩薩は、日本の神々の姿をとって、その大慈悲を私たちのために、具現化されているという受けとめ方にほかなりません。
日蓮聖人の二度にわたる流罪の体験とその超克は、聖人ご自身にとっても「法華経の行者」としての強いご自覚と、大恩教主釈尊から末法の世に遣わされた「如来使」という自己認識をなされ、そして法華経の従地涌出品に登場される六万恒河沙の無数の地涌の菩薩の四大上首の一人「上行菩薩」の応現という宗教的な境地に到達されています。まさに、法華経本門の教説に裏付けられた「仏使」としての聖人のお姿がそこに見られるのです。
このように、私たち末法の凡夫のために、みずからの身命をかえりみられることなく、題目の五字七字を久遠の釈尊の使いとして、私たちに譲り与えられていることは、まさに本化上行菩薩の応現として尊崇せざるをえないのです。
そのことからも、聖人の誕生日が2月15日の釈尊ご入滅の翌日「2月16日」と仰がれる由来が、ここに存するものと思われるのです。
(論説委員・北川前肇)

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2014年2月10日号

平和に向けた日本の立場

近年、領土を巡って複数の隣国との間で緊張が高まり、武力衝突の危機すら見え隠れしている。また、沖縄では、米軍基地の移設を巡る意見対立が解決を見ていない。武力による紛争解決を放棄して、世界にも類を見ない平和国家であるはずなのに、薄氷を踏むような緊迫した状況に立たされている。
戦後、日本国憲法が制定発布されてから六十年以上の歳月が流れた。この間、幸運なことに日本は直接的な戦争当事者とはならなかったが、世界的には、世界大戦にこそならなかったものの、世界各地での戦争や紛争は絶えることがなかった。大量虐殺や数多くの難民、国土の極端な疲弊など、目を覆う惨劇が繰り返されている。そんな中でも日本が戦争の直接的当事者にならなかった、その最大の要因は、武力による紛争解決を放棄した日本国憲法にあることは言うまでもない。しかしそれは、国家間の軍事力バランスを保つ中で、超大国の軍事力の庇護のもとにあったからにすぎないとの指摘も聞く。
このような、軍事力バランスによって国家間の武力衝突が回避され、平和が維持されるという論理は、核武装を目指す国々にとって、自らを正当化する最大の根拠となっている。平和のためには、力には力で対抗するしかないということだ。
また軍事大国は、この軍事力バランスに非常に敏感で、他国が軍事力を増強することで、そのバランスが崩れることを極端に恐れる。その結果、武力を行使して他国の軍事力を削ぎ、平和を維持しようとする、否、平和を維持するために武力行使をしたと言い、武力攻撃の正当化を図る。
確かに、近代国家がこのような論理のもとに動いているということは否めない現実だろう。情報化社会がグローバルに展開して、国境は意味をなさないとは言っても、領土を有する国家のあり方は、全く変化していないようだ。グローバル化とは無縁に、国家としての論理に固執して頑として譲らない。それが紛れもない現実であり、それによってのみ国家が存続できるとするならば、国益を最優先して軍事力に依存することは、現実的な選択としてはやむを得ないことなのかもしれない。
ただ、ここで、もう一度思い起こしてみたい。私たちの国は、武力による紛争解決を放棄した国だ。終戦当時の戦勝国側は、日本が再び強大な軍事力を持って国際紛争の当事国とならないことを意図したという指摘もある。しかしそれならそれで、その立場を最大限に利用すべきではないのか。
国際紛争をめぐる世界の大勢は、軍事力という選択肢に、愚かにもしがみついている。どれほどきれいごとを言っても、軍事力は殺人力、破壊力にすぎない。軍事力を誇示するということは、のど元に刃物を突き付けて威嚇するのと何ら違いはない。
それに対して日本は、どのような経緯があるにせよ、武力に頼らない紛争解決を義務付けられている。この立場は、平和構築という観点からすれば、最も先進的なものと位置づけることができるように思う。
武力や暴力によっては、いかなる問題も紛争も解決しない。新たな憎しみを生み、更なる悲劇を引き起こすだけである。我々は、そのことを長い歴史の中で学んできたはずだ。
軍事力の均衡による一時的で不安定な平和ではなく、軍事力の誇示を伴わない恒久的で堅固な平和をこそ求めるべきである。それができる立場にあるのは、ひとり日本のみだという自覚を持ち、あきらめずに誇りを持って主張し続けるべきであろう。

(論説委員・中井本秀)

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2014年2月1日号

宗教回帰の兆し

昨年の大晦日、除夜の鐘を撞く参詣者の姿を見て、若者世代の宗教回帰の兆しを感じた。
親や祖父母に手を引かれた子供たち、受験を控えた高校生や中学生のグループ、二十歳前後の若者たち、あるいは恋人同士と思われるカップル等々、世代も性別もさまざまであるが、ほとんどすべての人が、鐘を撞き終わった後、余韻に耳を傾けながら合掌し、一心に何事かを祈っているのである。そして、お守りを渡すと、「ありがとうございます」と、素直な言葉を返してくれるのである。
旧年中に身に纏わり着けた百八種類の煩悩の垢を洗い流し、清浄な心で新年を迎えるという意味を、すべての人が心得ているわけではないだろう。合格祈願や当病平癒、家内安全などを祈りながら鐘を撞いている人も多いと思うが、梵鐘の余韻に浸るときは、誰でも身の清まる思いを体感しているのではないかと思う。現世利益を招き寄せるためには、自らが心身清浄であることが求められていることを、暗黙のうちに了解しているのではないだろうか。
戦後の経済成長と近年の急激な情報化、そしてグローバル化の風潮の中で、伝統的な文化が置き去りにされ、日本人が長い年月をかけて培ってきた精神的な基盤がゆらぎ、失われつつあることに危惧の念を抱く人が増えてきたように思う。雑多な情報や刺激の過剰な現代社会の在り方に、このままでは人間の本質が歪められてしまうのではないかとの危機感を感じている人が多いのではないか。
経済のグローバル化は、文化のグローバル化と連動している。経済的強者の文化が経済的弱者の文化を凌駕し、情報強者が情報弱者を駆逐する。グローバリズムが進めば、親と子の絆を離断し、伝統や先祖供養の習慣も希薄にさせる。グローバリズムによって日本人の寄って立つ基盤を喪失することへの不安が、人を宗教的、霊的なものに近づけるのかもしれない。
日本では戦後、非宗教化に大きく舵が切られた。お墓参りや法事をしない世代が現れ、最近では葬儀さえもせずに亡き人を見送ることが少なからずあると聞く。しかし、東日本大震災は、図らずも先祖と現世に生きる者との絆の大切さを再認識させた。動植物のみならず、草木国土すべてのものと人間との絆の大切さを再認識させた。これらすべては、物質的な次元の事柄ではない。霊的な次元の事柄である。
人は宗教なしには生きられない。にもかかわらず、合理的でない、科学で証明できない、等々の理由で宗教を遠ざける風潮が近年の傾向であった。しかし最近、伝統宗教や霊的なものへの回帰が起きていると感じる。
宗教的な情操は、身近に宗教的な人がいれば自然に身に着くものである。神仏に一心に手を合わせるお年寄りがいれば、子どもはその姿形を見て育ち、やがて成長するに従って祈る心の何たるかを理解するようになる。祈りのある空間が清浄なる霊的な場になることを体感するようになる。
伝統芸能が再興され、墓参りが盛んになってきている傾向を「再宗教化」と表現した人がいるが、この再宗教化の流れを過たずに正しく導く必要がある。
多くの人が心の奥底に秘めている「苦しみとは何か」「欲望とは何か」「本当の心の安らぎとは何か」「幸福とは何か」といった根源的な問いへの答えが、仏教に用意されている。その答えの肝心要である「お題目」を伝え弘める意義は、益々大きくなっていると言えよう。
除夜の鐘を撞きながら、純真な祈りを捧げる老若男女の姿に、宗教回帰の確かな兆しを感じた。
(論説委員・柴田寛彦)

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