2013年12月10日
まちづくりは仏道修行
地元の青年会議所のメンバーが、ある通りで毎年のようにイベントを行っていました。その通りの良さを地元や観光客に知ってもらい、通りの住民を活気づけ、さらにその応援者を作っていくことが目標です。イベントの数ヶ月前から準備を始め、イベント期間中は自分の仕事を休んで、イベントの手伝いをしていました。
ある年、通りの人達に協力を求めました。それに対し、地元の反応は冷たいものでした。「人の通りで勝手なことをやるんじゃない」「何の権利があって、あの若造たちはこの通りを使っているんだ」。これを聞いた時、メンバーの気持ちは一気に萎えました。地域の人の為にやっているのに、協力を得られない。さらには、悪口を言われる。「誰のためにやっているのか。」「やってられない。」不満が続出しました。そして次の年からこの通りのイベントはなくなりました。
まちづくりは難しい。まちづくりに携わる人は皆言います。まちづくりの最初は、苦労ばかりです。それでいて、なかなか結果は出ません。おまけに協力は少なく、悪口ばかり言われます。まちづくりの根本は「地域の人の力」です。人の力がなければ、まちは変わりません。イベントなどで目標が身近に見えている時は、どこまで努力すればよいのかがわかりますから、協力者も多く集まり、中心にいる人たちもやりがいを感じることができます。しかし、成果が見えにくい目標、結果が出るまで時間がかかる目標に対しては、大きな忍耐が要ります。
「がんばってください。できることは協力しますよ。」このような言葉を人から言われると、勇気づけられると思うでしょう。しかし、まちづくりの内情を知る人はこの言葉を聞くと脱力感を覚えます。「できることは協力します」は「何も協力しません」とほぼ同じ意味を持っているからです。「できることがあったら、協力します」は「できることがなければ、協力しません」なのです。ですから、まちづくりに携わる人たちにとって、「できることは協力します」と言う人を千人集めるより、「何か協力できることがありますか」と聞いてくる人を十人集める方がはるかに難しいと言います。
地域のため、社会のため、他人のために何かをしていると、自分が善いことをしていると感じるようになります。そこには、決して見返りを求めているような考えは入っていません。しかし、努力を続けていても、結果が出ず、逆に批判を受けるようになると、少しずつ次のような考えが自分の中で大きくなっていきます。「自分はこんなに人に尽くしているのに、この人達は全くわかってくれない」「なんだか、こんな人たちの為に努力するのが、ばかばかしくなってきた」これは自然な考え方です。しかし、ここから仏道修行としての菩薩行が始まります。法華経の常不軽菩薩は石を投げられても合掌することをやめませんでした。日蓮聖人は、命の危険に曝されながらも、教えを説き続けました。
私たちは、善いことをしていると思っていると、どうしてもその見返りを無意識のうちに求めているようです。他人の為に善いことをするという菩薩行は、自分の為にしています。しかし、続けているうちに自分の「善行」に酔ってしまい、周りの人も「善行」を認めて、感謝していると思いこんでしまいます。人の為に努力しても、人から感謝されない時が、その行為が「自分の行としての菩薩行」であるのか、「いい気分になることができる慈善行為」であるのかを確認できる機会と考えられるのではないでしょうか。そう思った時、周りの反応を気にせずに、菩薩の行を楽しむことができるようになるでしょう。
(論説委員・松井大英)