論説

2013年4月20日号

日本人の忘れ物「絆」と「互助」

平成23年3月11日の東日本大震災を機に、日本人は、近代化により忘れてしまっていた大事なものを思い出した。それは、人と人の密接な関係「絆」と「互助」の大切さであった。永年稲作農業をしてきた日本の農民が、その生活の中から工夫し編み出してきた社会運営機構が、「絆」と「互助」なのである。
以前、日本人がガイドの旗について、ぞろぞろと外国旅行をする姿が戯画化されて紹介された。皆眼鏡をかけ、カメラを首から提げている。物を買いあさり、あたり構わず大声で話す。仲間と同じ物を買い、トイレにも皆揃って行く。滑稽な風景として取られた。これらは、日本人の集団主義を象徴する事象だと考えられ、外国人だったらこんな模倣行動は取らないと、日本の知識人さえ自虐的に批判した。その旅行者は、本当に恥ずべき個性無き集団主義を取っていたのであろうか。
農村では、つい最近までみんなで助け合いながら生きてきた。一時に行わなければならない田への水引き、苗代造り、田植、稲の取り入れ、これらの作業は、一斉にやる事で全体の能率が上がった。皆一緒にやれば、道具の貸し借り、助け合いもできる。協働は生活の中から考え出した能率を上げるための工夫であった。更には、一緒に同じ仕事をやることにより、辛いことにも耐えられた。田に引く水は、下流に流れていく。水はみんなで分かち合わなければならない。一人が自分勝手に水をせき止めたら、下流のみんなが迷惑をするのである。手が足りない時は皆が助け合って農繁期を乗り切る。この「互助」の考えは生活万般に行きわたっていた。
冠婚葬祭ではお互いに助け合い、病人の世話、老人の介護も周囲の者が助けた。病人が出れば、親族だけでなく近隣の者も、看病を手伝った。子供は親だけで育てるものではなかった。祖父母ばかりでなく兄や姉、近隣の者、親戚が共同で育てた。親が家を留守にすることがあれば、残された子供や老人の面倒を親戚や近所の者がみた。日用品で不足する物が有れば、気軽に貸し借りをした。味噌を借りたり、醤油をもらったりは日常のことであった。少量の物でも、隣人に「お裾分け」をした。皆で珍しい物を分かち合ったのである。旅行に行けば、家の者、隣近所の人にもお土産を買い、自分の楽しみのお裾分けをした。洗濯物を干したまま外出している時、雨が降ってくれば、隣人が洗濯物を取り込んでくれた。気が付いた人が、それぐらいのことをするのは当たり前だった。お互いにお互いを思いやりながら、助け合って生きていた、そんな時代があったのである。
貧しいのに、少しの物を分かち合い、自分たちより、もっと大変な境遇にいる隣人たちに同情し、助けの手を差し伸べようとした人たちがいた、そんな時代があったことを、東日本大震災を機に、我々は思い出したのである。
農業中心の社会は変わり、都市化が進んだ。人々は流浪の民となり、孤立化した。欧米流個人主義が浸透し、人々は強い繋がり「絆」を束縛と考えるようになった。「互助」を忘れ、地方自治体や国に何でもさせようとするようになった。
「絆」「互助」再考の時が来ている。

(論説委員・丸茂湛祥)

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2013年4月10日号

なまはげは怒っている

昨年末に見たテレビのコマーシャル。2人のなまはげが家の中に入ってきました。その家の子供たちは大パニック、泣いて逃げ回ります。その時、突然なまはげがお面をとって、そこから出てきたのは、あるアイドルグループの若者2人でした。子供たちは安心して、しかもテレビで見たことのあるアイドルと知って、仲良く遊び出しました。このコマーシャルを作った人間は、なまはげを単なる「子供を怖がらせる風習」と捉えているのでしょう。しかし、なまはげの行事は「子供を怖がらせる」ことが目的ではありません。
なまはげを含め、地方の祭や民俗行事にはすべて意味があります。そこには、決められたルールがあり、参加者はそれを守ることで、行事への参加が認められます。そして認めるのは、人間ではありません。神仏を含む神聖な存在が、祭りや行事の目的を理解し、目的を達するための規則を守る人間にのみ参加を認めるのです。ですから、意味が忘れられた祭りは荒れてきます。ただ酒を飲んで、騒ぐだけの場と化してしまうのです。神田の祭りで神輿の上に人が乗る、ねぶた祭でカラスと呼ばれるハネトが列を乱して大騒ぎする。日本の祭が今、おかしくなってきています。祭の本質を捉え直すことが関係者に求められているのです。
「ハレ」と「ケ」という言葉を御存知でしょうか。これらは民俗学で使われる言葉で、ケは日常、ハレは非日常を意味しています。民俗の世界では、私たちが日常生活を送っているのは、そこにケという力が働いていて、それによって社会の秩序が保たれていると言われます。そして、そのケの力が枯れてきた状態を「ケ枯れ」と言います。この言葉が変わって「けがれ」「汚れ(穢れ)」になったと言われています。ケが枯れて力が弱くなってくると、社会の秩序が乱れ、様々な災難がおこるのです。そこで、私たちは、ハレの時間で聖なるものと接触し、ケの力を回復します。それがハレ、祭りであると言われているのです。
ハレは、聖なるものと対面し、そこから力をもらう時間です。ですから、接する側にはそれなりの支度が必要です。なまはげを迎える家では、その家長が紋付き袴で迎えることが本来の姿であるそうです。そして、参加者はハレの規則に従わなければなりません。祭のハレの時間に、秩序がないわけではありません。ハレの秩序があるのです。その意味がわからないと、祭はただの「乱痴気騒ぎ」になってしまいます。最近の祭が荒れる原因がここにあります。
飲みすぎて酔っぱらったなまはげが旅館の女湯に乱入して騒動になったという記事が新聞に載ったことがあります。この男はなまはげの意味を全く理解していなかったのでしょう。しかし、その記事の後半を読んだ時、思わず笑ってしまいました。この事件を重く見た行政が「なまはげの暴れ方に関する行動指針」を作ろうとしていると報道していました。いかにも行政がやりそうなことですが、ものごとの本質がわかっていない「とんちんかんな」対応です。
なまはげは、ケの力が弱くなった社会に、聖の世界からやってきて、秩序を回復する存在です。なまはげを迎える行事は、神聖な儀式と言えます。子供などに「悪いことをしていないか」というのは、神聖な世界とつながる俗世界の社会に正常な秩序を持たせ、子供を大人の社会に迎え入れるための神聖な行為なのです。そのような行事の意味を、参加者が再確認した時、なまはげは本来の姿にもどり、祭は安定を取り戻すでしょう。

(論説委員・松井大英)

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2013年4月1日号

こころがキレないために大切なもの

最近の多発する事件には驚きと共に悲しみ、怒りをも感じる。なかでも短絡的な暴行や殺人、虐待問題等が報じられる度に加害者のこころの内に思いを巡らせてみるのだが、なかなかその心中を察することは難しい。
ある時期から「キレる」という表現がよく使われるようになった。それは子どもに限らずおとな社会においても、安易に、またなんの違和感もなく使われているように思える。ちなみに「キレる」とは、広辞苑によれば「我慢が限界に達し理性的な対応ができなくなる」とある。つまり堪忍袋の緒が切れて感情が爆発してしまうのである。
しかし「我慢の限界」や「キレる」というのは、かなり個人差があるように感じられる。
私たちは当然、当事者の行動面を問題視するが、実はそこに至るこころや感情の発達にも目を向けなければならない。
感情の発達には、乳幼児期からの親との関わりが大きく影響すると言われている。そこでいくつかの対応を考えてみたい。
一つ目は「親は子どもの身体の内側の感覚について関心をはらうことが大切」ということ。おなかが空いたとか喉が渇いたというのは、身体の内側の感覚といえる。そこで同様に「いらいら」とか「さみしい」とか「不安」などの内側の感覚に注意を向けることが重要になる。
たとえば、子どもは自分が何かを食べておいしいと感じると「ママは?」と尋ねてくることがあるが、これは「ママの中にも自分と同じ感覚があるのかな?」と確かめているのである。つまり味覚の「共有」を望んでいるのであるから、しっかりとこれに応えていくことが、後々の「共感」とか「人への思いやり」につながっていくのである。
二つ目は「触覚を通して相手の内側の感情に触れる」ということ。感情の発達にとってこの触覚はとても重要で、乳児期から人に触れられたり、自分も人に触れることは大切なことである。これは今日スキンシップ(身体接触=フィジカルコンタクト)ということばで一般に知られているものである。
三つ目は「親が、子どもの内側にある感情や感覚に触れることばを使う」ということ。
たとえば赤ちゃんに話しかける時、ただ「お花だね」「ワンワンだね」と言うのでは、単に外見だけの言語化である。そこで「お花だね、きれいだね」とか「ワンワンだね、かわいいね」などと子どもの内側(感情)に触れることばかけをしていくことが重要と考えられている。
このように、幼少期からの親子関係がその後の子どもの感情発達とこころの成長に、大きな影響を及ぼすことが指摘されている。しかしながら、いずれも家庭での家族の触れ合いの機会がなければ始まらない。
事件を引き起こす多くの若者には社会への不満、不安が存在するが、彼らに安心できる家庭があったのであろうか。実際、家庭の不和、親子関係に苦悩する若者は、過激な勧誘活動を展開する教団の標的となり易い。
また、虐待する母親自身も子どもの頃、親から虐待を受けていたという「連鎖」も少なからず指摘されているが、その母親の育った家庭、親子関係はどのようなものであったのかは想像に難くない。
ある作家は、非行少年の家には仏壇がないと言う。たしかに仏壇というものが、家庭や家族関係のこころに及ぼす影響も考慮されてよいであろう。むしろこのような時代だからこそ家庭の中心の仏様の前に静かに座るひと時というのは、家族一人ひとりのこころを豊かにするためにも大切ではないだろうか。

(論説委員・渡部公容)

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