2011年8月1日号
お盆法話
お陰様の人生~陰徳を積む~
(石川県輪島市妙相寺住職 河﨑俊宏 師)
今年、90歳を迎えた檀信徒がおります。お寺にお参りされて50年以上、仏さまにお給仕を続ける一人のご婦人(お婆ちゃん)のお話です。
このお婆ちゃん、いつもお寺に来ると仏さまのお水を替えて下さいます。足元をもたつかせながら、丸くなった腰を伸ばして仏さまに、「お陰さまです、ありがとうございます」と何十年もお水を替えておられます。他のお参りの方々は、その姿に、お給仕の大切さを教えて頂いているようです。
30歳を過ぎた頃、縁あって子供さんのことでお参りに来られるようになり、真冬でも井戸水を被っては、先代住職より教化を受け信行に励まれ、仏さまへのお給仕が始まりました。正に先達のようなお方です。この信行の姿、信仰そのものが、他の檀信徒に与える影響は大きく、お参りの後、「お陰さまの人生、ありがたいの」と口癖のようにお話しされます。何十年と仏さまにお給仕してこられた「陰なる徳行」は今もなお続けられています。故に心から感謝の思いで満たされているのだと思います。
日蓮聖人のお言葉に、「陰徳あれば、陽報あり」(『陰徳陽報御書』)というお言葉があります。陰なる徳・功徳を積むことによって、その報い明らかにあらわれる。という意味になりますが、「陰なる徳」を積むことは、現代社会では難しいことです。競争社会や結果優先、経済優先社会。この社会は、いかにして自らを売り込み、アピールし、はね除け、伸上がって行かなければならない現実。その中で、悶え苦しみ、悩み続ける私たち。実際、「陰なる徳」を積むことは、実に難しいことなのかもしれません。
しかしその一方で、「価値観の変革」を求める現実もあるのだと思います。私たちはこの社会に、身を委ねながらも、自身の中に、安寧を求め、清らかに過ごしたいと望んでいるのも確かだと思います。その葛藤にまた私たちは苦しみます。
法華経には、「世間の法に染められず、蓮華の水にあるが如し」(『従地涌出品第十五』)、現実社会に身を置きながらも、自身を決して見失うことなく、また流されず、悪い環境に自らも染まることなく、まるで泥水に咲く「蓮華」の姿であれ、そのように心がけて生きよと教示されているのです。
冒頭でご紹介しましたお婆ちゃんは、私たちに一つの生き方を教えてくれています。小さなことでもよい、自身ができることを感謝の思いを忘れずに、仏さま、周りの皆さん、そして自身の信行の為に、「陰なる徳」を積みなさいということを。
決して自慢せず、皆が見ていない所でも「陰なる徳」を積まさせて頂く。見返りを期待せぬ行いに、結果として陽報が生じ、お陰さまと言える結果と更なる感謝の思いが強くなるのでありましょう。このような生き方をしたいものです。「陰なる徳」を積むことは、「菩薩行としての実践」とも言えるのでしょう。
私は住職なって19年。周りには「陰なる徳」を積んでおられる方々が大勢います。お参りごとに帳場(受付)の役を率先して受けて下さる方、仏さまのお供えを毎回ご供養して下さる方、仏さまのお花を供えて下さる方、境内の虚空蔵さまに毎回お花をお供えして下さる方、日参し本堂を清掃して下さる方、行事の準備を手伝って下さる方、仏具を磨いて下さる方、様々な人が自分にできることから、「陰なる徳」を積んで下さっています。そこから、法悦(悦び)を感じて下さっています。
人それぞれの「陰徳」を積む方法はあると思います。例えば、私たちの田舎のほうでは、これからお盆を迎えます。お盆のご供養や、お墓参りも「陰徳を積む(徳行)」一つとなるでしょう。受け継がれている「いのち」に感謝し、今生かされていることへ感謝する。そして仏さまに、周りの人たちに、自身の信心の姿として、できることから実践し続け、驕らず、謙虚に歩み続けて行くことが、菩薩行なのでありましょう。
ご家庭でも、会社でも、地域でも「陰徳」を積み、お陰さまの人生を実践して行きましょう。今日も、あのお婆ちゃんと共にお題目を唱えながら皆さんの幸せをお祈りいたしております。
合 掌