日蓮宗新聞
2004年12月10日号
シンガポールに新たな信徒団誕生
東南アジアのビジネス中心地・シンガポールに日蓮宗の新たな信徒団「五重山題目寺」が発足し、11月13日、担当の小幡妙照開教師を導師に信徒団開設帰正式が行われた。翌日には授戒帰正式が行われ、御本尊授与とともに約35人が授戒した。
東南アジアでの信徒団の発足は、4月のマレーシア・クラングの「感恩寺」信徒団に引き続き、今年2ヵ所目。昨年発足したインドネシア・ジャカルタの「蓮華寺」と、一昨年発足のマレーシア・ペナン「一念寺」の信徒団、そして台北の「台湾日蓮宗仏教会」と併せ、これで東南アジア新開教地は3ヵ年の内に5つの信徒団を擁するようになった。
いずれの信徒団も数十人から200人程度だが、それぞれ会堂を有しており、今回の帰正式も小幡開教師の指導するペナン一念寺の弛まぬ布教努力の成果で、シンガポールでの開教は第二次大戦前にあった妙法寺が途絶えて以来となる。
13日、14日にかけて行なわれた法要では、ペナン一念寺、クラング感恩寺の信徒約30人が、夜行バスで12時間をかけて応援に駆けつけ、ジャカルタの蓮華寺からも飛行機、ボートを乗り継いで数人が参加した。法要の後には、アメリカ、カリフォルニア州開教布教センターの赤星龍憲所長、元開教師の松本学堯師(山梨県蓮華寺住職)による講義が行われた。
「五重山題目寺」の秘書長アルビン・クォ氏は「仏教で説かれる人間性に惹かれ改宗しました。また今年6月に行なわれた北京仏学院での岩間総長の講演に触れることができたのもきっかけです。日蓮宗はお釈迦さまの本質を尊ぶ、開かれた宗派と思います」と帰正の喜びを語った。
昨年八月にマレーシアに赴任した小幡開教師は「この後もとんぼ返りでマレーシアのクラングにて青少年研修を行います。現在、ペナンと他の4つの信徒団に巡回して布教をしており、シンガポールにも月一回は巡回布教を行う予定です。いつも飛び回っていますが、とてもやりがいがあります」と意気込みを語った。
10月の新潟中越地震を中心とした日本の災害に対して、ペナン一念寺から41万7千円、ジャカルタ蓮華寺から125米弗の義援金が寄せられ、現在クラング感恩寺でも勧募が進められている。
「平成16年集中自然大災害」
今年は相次ぐ大災害が各地において発生し、多くの宗門寺院および檀信徒に甚大な被害がもたらされた。
これらの状況に対し宗務院に設置されている災害救援対策本部(対策本部長=岩間湛正宗務総長)は、新潟・福井豪雨災害から新潟県中越地震に至るまでの災害を、「平成16年集中自然大災害」と位置付け、災害地域での災害救援本部設置ならびに本部長・副本部長の委嘱を決定した。
この大規模災害適用は日蓮宗規程第38号「大規模災害救援対策規程」によるもので、平成7年4月の規程施行後初めての適用となった。
災害救援本部設置および本部長は次の5管区。
▽福井県北部(布谷海哲本部長・福井県豪雨災害)
▽静岡県東部(瓜島信行本部長・台風22号における静岡県伊豆半島の災害)
▽京都府第二部(貫名英功本部長・台風23号における京都府宮津市の災害)
▽兵庫県北部(村井浄音本部長・台風23号における兵庫県豊岡市の災害)
▽新潟県西部(池浦泰樹本部長・新潟県豪雨災害・新潟県中越地震)
この災害救援本部の救援内容は、管区内の寺院・教会・結社および檀信徒の罹災状況ならびに避難状況の把握を行い、救援・復興に向けた活動の支援を中心に展開し、災害救援対策本部(宗務院)はこれらの活動を支援し、復興への総合的な対策を講じていく。
大規模災害救援対策規程
大規模災害の発生による寺院・教会・結社・教師・寺族及び檀信徒等の被災に対応し、災害救援対策を推進することを目的とする。
宗務院内に災害救援対策本部(本部長は宗務総長)が、各管区に支部(支部長は宗務所長)が常設されている。
大規模災害が発生した時は、直ちに隣接支部を合同して、災害地又は隣接地に災害救援本部を置き、迅速な対応を行う。
これらの規程は平成7年の阪神淡路大震災を機に施行された。
法華信仰の至宝「曼荼羅本尊」
神奈川県鎌倉市の霊蹟本山妙本寺(加藤日暉貫首)で格護されてきた弘安2年(1279)の曼荼羅本尊が、日蓮聖人のご真蹟であることが中尾堯立正大学名誉教授・寺尾英智身延山大学教授らによって確認された。本年五月の本成寺(新潟県三条市・法華宗陣門流総本山)での発見に続き、これにより現在129幅目のご真蹟本尊が確認され、新たに法華経信仰の至宝が加わることとなる。
今回確認された曼荼羅本尊は、弘安2年、日蓮聖人御年59歳の時に身延山で揮毫され、弟子の日行という人物に授与されたもので、丈49cm×幅31cmの一紙に顕されている。日蓮聖人の曼荼羅本尊の中では小型の部類に属し、本紙は厚手の楮紙が用いられ、防虫や表面保護のための染色と打紙加工が施されている。
妙本寺には、現在、六幅の日蓮聖人ご真蹟曼荼羅本尊が格護されているが、今回確認された一幅はご真蹟としての確証が得られないまま宝蔵に修められていた。しかし綿密な調査を進めるうちにその形状や伝来がはっきりし、ご真蹟と判断するに十分な条件を満たしていることがわかったという。
中尾教授によると、日蓮聖人は身延山で大小さまざまな曼荼羅本尊を揮毫され、今回のような一紙ほどの小型のものも多くの信者に与えられているが、そこには文永11年(1274)10月の蒙古襲来(文永の役)が関係しているという。
未曾有の国難を経験した当時の日本では、迫り来る再度の襲来に備え、防衛のために多くの武士たちが九州に赴いた。その際、「お守り」として身につける曼荼羅本尊の揮毫を日蓮聖人に願った武士層の信者たちの姿が想像される。
事実、弘安4年(1281)には再び蒙古の大軍が九州博多に襲来するが(弘安の役)、それだけに当時の社会不安は大きく、留守を守る妻子も大きな悩みと不安をかかえ、「僧侶も信者も共に危機感を持っていた時代」と中尾教授は語る。
今回確認された弘安2年の曼荼羅本尊は「お守り」として携帯された可能性が強く、ご真蹟であるという判断には、正確を期すため、長期間にわたって調査を行ってきたという。
現在日蓮宗では中尾教授を中心とするメンバーにより、宗門寺院で格護される百幅近いご真蹟曼荼羅本尊の調査と修復を進めている。こうした修復の過程で、これまで知られていなかった新たな事実が発見されることも多く、研究の進展とともに後世への宗宝護持の気運がさらに高まることが期待される。
妙本寺では5年前から寺宝の整理事業を進め、平成14年には写真集『妙本寺文書』を刊行した。加藤貫首は「寺宝の格護には細心の注意を払っております。今回の発見は霊蹟妙本寺にとりまして誠に意義深いことで、大切な法華経信仰の宝として後代に伝えていく所存です」と語った。
日朗門流の二大拠点
長興山妙本寺
“比企谷”の通称で知られる。鎌倉の比企谷に屋敷を構えていた有力御家人の比企一族が北条氏によって滅ぼされたとき、ただ一人残された比企能本(大学三郎とも称す)は日蓮聖人の信者となり、法華堂を建立して聖人に捧げた。六老僧日朗上人はこの地を受け継ぎ、鎌倉を中心に各地に教えを弘めていく。以後、日朗門流の二大拠点の一つとして池上本門寺(東京都大田区)と共に両山と並び称された。
平成16年4月には日蓮宗の霊蹟指定を受け、日蓮聖人以来の由緒を今に伝えている。